本に対する桁外れの興味をもち、並みはずれた知識をもつ人たちは「書痴」と呼ばれてきた。彼らは音痴と違って、音に鈍感なのではなく、書物に異様に敏感なのである。彼らは本そのものにマニヤックなのだが、そのポピュラーな姿は古書マニア、古本コレクター(蒐書家)とも呼ばれてきた。そんな書痴を何人も知っているが、それが学術研究になると書誌学となり、私には美術史学と区別ができない領域となる。
写本、あるいはマニュスクリプトは本の旧形態であり、原則的に一冊しか同じものはない。むろん、手書きによる本であり、パピルスや羊皮紙に書かれている。日本なら和紙に墨で書かれた古文書ということになる。古文書は虫に喰われるという欠点をもつが、和紙と墨の組み合わせは人類最強の組み合わせで、これほど長時間情報を保存できる媒体は未だにない。ファクシミリもCDもどれだけ情報の保持ができるか、誰も知らない。考え始めると不安しかないのだが、せいぜい二、三百年がいいところ。数千年以上持つだろう和紙と墨には遥かに及ばない。
注釈による学問が中心だった古代、中世は洋の東西を問わず、テキストそのものが研究対象と言ってもよかった。広く木版印刷や活版印刷が普及する以前、本は筆写するもので、直接の研究対象だった。プラトンやアリストテレスの古典研究は彼らの著作の研究であり、それが注釈することであり、正に学問研究の正統的方法だった(パドヴァ大学の解剖学教室は1593年、ライデン大学の物理学実験施設は1675年で、ヨーロッパの大学は神学、法学、哲学の三学部中心で、正統的な方法は注釈だった)。中世ヨーロッパにおいて写本はキリスト教の修道院を中心に行われ、写字生によって組織的に作られた。その当時の写本の中にはしばしば壮麗な挿絵がつけられ、美術品として扱われるものも存在する。教会は裕福で、御用学者の著作も当然豪華な装丁だった。そうでないガリレオやニュートンの著作の装丁は実に貧弱で、本の内容と外観は関係がないのである。中国の北宋代以降、日本では、仏典の木版印刷が用いられ始めたが、修行の一環としての写経は今にまで引き継がれている。
テキストから実験・観察へと研究方法がシフトするのは18世紀に入ってからであり、テキストの注釈と実験データからの仮説の構築や検証という学問の方法の違いは図書館の役割をも変えることになるのだが、それは20世紀まで待たねばならなかった。
昔の図書館の狭く、薄暗く湿った書庫は大学院生にはこの上なく胸躍る空間だったのだが、そこで19世紀のイギリスの書物を手に取るのは注意を要した。和紙と違って酸性紙が使われた本がほとんどで、紙は炭化が進み、100年も経たずにとても脆くなっていたためである。その後、酸性紙の中性化が本格的に行われることになる。
*グーテンベルク聖書は15世紀にグーテンベルクが印刷した西洋初の活版印刷の聖書。本文には漆黒のゴシック活字が使われ、ほとんどのページが42行の行組みであることから「42行聖書」とも呼ばれる。画像の聖書は紙に印刷されたもので、慶應義塾図書館所蔵。