国立公園、観光、綺麗なごみ

(1)ごみのある今の生活、ごみのない昔の生活
 江東区有明に引っ越して数年たちますが、すぐ近くに夢の島があり、今では緑あふれる公園に変貌しています。かつてごみの島だったとは思えない風景になり、ごみの山が見事な公園に変わったのです。一方、ごみを出す私たちの生活は相変わらずで、ごみが減ることはありません。
 私が小学校に入学した頃にタイムスリップしてみましょう。すると、今のようなごみはまだありません。日常生活から出るごみはほぼ皆無。実際、1960年近くまでの妙高の生活を思い出せば、今私たちが見ているごみはどこを探してもありませんでした。ビニールの類は一切なく、当然ながらペットボトルもビールや飲料の缶もありませんでした。プラスティックごみなど誰も知らなかったのです。酒瓶や醤油瓶はありましたが、それらは回収され再利用されていました。包装紙も日常の買い物には使われず、せいぜい新聞紙が使われる程度でした。肉、魚、豆腐がパックされている今とは違って、それらの持ち運びには経木や鍋が使われていました。スーパーもコンビニもまだなく、商品は裸のまま並べられ、売られていました。
 我が家の周りの家の裏庭には生ごみを捨てる場所(ごみ捨て場)があり、そこに残飯が捨てられ、最終的にたい肥になっていました。毎日の残飯は少なく、あっても大抵は飼われているブタやニワトリの餌になっていました。そのため、ごみは厄介ものではなく、大切な資源であり、当然ながらごみの収集車などなかったのです。実際、ごみは出なかったのですから、収集車など必要なかった訳です。
 ところが、現在の私たちの生活はごみだらけ。ごみを生み出し、ごみに囲まれ、ごみに紛れながら生活するのが私たちです。ごみは必要悪だとよく言われますが、それは今の私たちにはきっぱり悪だと言い切れないからです。「嘘も方便」のように「ごみも方便」という訳なのです。ごみを生み出すことが経済発展の証だとすれば、それは悲しい発展だと嘆きたくなるのですが…
 ところで、植物や動物にごみはあったのでしょうか。生き物ですから、排出物はあります。でも、汗もし尿もごみではありません。ファーブルのフンコロガシが頭に浮かんできます。ごみとは文化的なもので、人の社会生活と共にごみが生まれたとみるのがいいでしょう。縄文人の集落の貝塚夢の島と同じくごみの山でした。ごみの増加は経済的活動や文化の隆盛に比例しています。ですから、ごみは社会発展の指標の一つになってきたのです。すると、私の子供時代のごみなし生活は生活程度が現在のそれに比べ著しく劣っていたということになります。ごみの有無はマナーや倫理の問題ではなく、経済成長の有無だということになります。人がエネルギーを使うとごみとして熱が必ず出ます。電気を使えば、熱が出ます。いずれも熱力学の基本的な法則。熱がごみなら、ごみのために地球温暖化が進んでいることになります。エネルギーをつくり、使うのは経済活動を推進し、文化的生活を維持するためです。ですから、経済、文化の存在自体が地球温暖化を進めているというのは事実であり、温暖化を引き起こしている直接の要因はごみなのです。
 でも、誰もこの結論に得心したくありません。というのも、この理屈と結論を認めることは文化も経済もごみを必ず生み出すもので、ごみを生み出すことによって社会が成り立っているということを認めることだからです。社会、経済、文化がごみを産むための制度や装置だということになれば、人の努力はごみのためということになりかねません。誰もごみのために考え、働き、頑張るとは決して思っていません。ですから、このような考えを受け入れたくないのです。
 このような議論は確かに乱暴で、粗雑です。議論の前提は曖昧で、推測が多くを占めています。それゆえ、それに真剣に向き合う必要はないのかも知れませんし。では、子供時代の故郷のごみゼロの生活は一体何を意味していたのでしょうか。私たちの現在の生活とはまるで違っています。ですから、今の生活を考え直す契機にはなるでしょう。ごみゼロ生活とは一体どのような生活なのか?この問いを生むこと自体が記憶に残る昔の故郷の存在理由なのかも知れません。

(2)本物のごみと偽物のごみ
 今の私たちの生活は多くのごみを生み出していると書きました。夕食を一回つくると出るごみの量は信じられないほどです。その中には利用できるごみがたくさんあります。食べ物だけでなく包装していた紙やビニールも再利用できます。その意味ではそれらは「見かけのごみ、偽物のごみ」に過ぎません。どうしても使うことができず、本当の意味で捨てざるを得ないものがあるとすれば、それが「本物のごみ」です。本物のごみは煮ても焼いても食えないものです。でも、本物のごみなどそもそもあるのでしょうか。「生態系が循環系である」ことは、本物のごみは存在せず、すべては循環するサイクルの構成要素としてシステムの維持に役立つことを意味しています。これを生態学的ごみと呼んでもいいでしょう。生態学的ごみは実は偽物のごみで、現象的にごみに見えているに過ぎないものであり、いずれサイクルのどこかで再利用されるものです。では、本物のごみは本当にないのでしょうか。本物のごみは熱力学的ごみであり、エントロピーが最大になったシステムの状態、それが本物のごみです。どのように工夫しても再利用ができないものです。エネルギーはこの世界では色々な形態をとっています。なぜ私たちは電気を重宝するのか?それは電気エネルギーを他の形態のエネルギーに変えることによって多様な仕事ができるからです。つまり、電気は高品質のエネルギーで、様々に利用可能で、私たちにとって使い勝手がよいエネルギーなのです。それに対して、熱は低品質のエネルギーで、仕事をした後のエネルギーの形態が熱なのです。私たちは身体を激しく動かし運動すると熱が発生し、発汗します。熱を再利用することはもちろんできますが、そのためには再利用できるエネルギー以上のエネルギーを必要とします。つまり、結果としてますます熱が発生することになるのです。こうして、自然を利用して仕事をした最終結果が熱の発生であり、それが地球規模の温暖化を引き起こしているということになるのです。文明とは品質の良いエネルギー(電気エネルギー)を利用して自然を人間に都合のよいものに変え、その結果として本物のごみ、つまり熱(悪質のエネルギー)を出すものということになります。「熱を熱でないエネルギーに変え、しかもその際に更なる熱を出さないようにする」ような機関は永久機関と呼ばれてきましたが、それは熱力学的に存在できない機関なのです。
 このように考えてくると、偽物のごみが再利用されても、つまるところは熱という本物のごみになり、それが蓄積されていく、そして、それをさらに速めているのが私たちの文明である、ということになります。

(3)文明と偽物のごみ
 前の節の結論に成程と納得しても、希望のある未来を画策することを根こそぎ否定するような結論で、悲観的にならざるを得ません。それに、この結論はお伽噺のようで、決して実現しない神話かSFのような印象があります。この印象がもっともらしいことを掘り下げてみましょう。
 世界が最後に本物のごみだらけになってしまうことは、「熱死」と呼ばれていて、エントロピーが最大になった状態のことです。熱死という考えを最初に提唱したのはヘルムホルツです(1854年)。宇宙が熱死に陥るのは「孤立系のエントロピーは増大する」という熱力学の第2法則からの必然的な帰結なのです。宇宙で無限の時間が経過すると、全てのエネルギーが均等に分布する状態になります。すべてが均等化、一様化していて、ごみが何か、どんな様子かわからない状態が熱死状態です。区別できる、違いがある、むらがある、偏りがある、等々の表現が一切誤っている、メリハリの一切ない状態です。その状態を識別できるような、例えば私たち人間も、その状態と一体化して区別できなくなっています。つまり、ごみを識別できる人もおらず、すべてはごみだけという状態が熱力学が描く熱死の状態です(余談:温度は、人間が感じた暑さや寒さ、熱さや冷たさを数字で表したもので、これに対して熱は温度を変化させる原因です。熱はエネルギーの一種であり、その量を表す概念としての熱のことを熱量と呼びます。ですから、風邪をひいた時、「熱がある」という言い方は不正確で、 正確には「体温が高い」というべきです)。
 したがって、本物のごみを見たことのある人はおらず、ごみ状態の世界は観測されたことがないどころか、観測が原理的にできないのです。つまり、人が生活している限り、本物のごみはなく、人は偽物のごみとだけ格闘するということになるのです。偽物のごみは現象的なごみに過ぎませんから、それを再利用してごみでないものに変えるといったことが可能であり、ごみをさらに出すという宿命を負いながらも、偽物のごみを価値ある商品に変えようと日々努力することになります。
 文明とは偽物のごみを価値ある財、あるいは商品に変える工夫の集まりです。その工夫ができるごみが綺麗なごみ、それができないごみが汚いごみと分けて考えることができます。偽物のごみは原理上リサイクルができるのですが、それには費用がかかり過ぎてしまうごみが汚いごみで、そのまま放置されることになります。分別して燃やすことができるごみは綺麗なごみの一つであり、プラスティックのリサイクルも綺麗なごみに分類できます。「綺麗、汚い」の区別は、時代や場所によって異なり、そのごみと財のせめぎ合いが文明を維持させてきました。経済とは、社会が生産活動を調整するシステム、あるいはその生産活動のことですが、「ごみと財のせめぎ合い」が経済活動の実質的な内容なのです。
 政治の世界で核廃絶はずっと夢物語のままになっていますが、生活レベルでのごみ廃絶もお伽噺になったままです。核廃絶は皆がOKすれば済むのですが、核のごみも含めてごみの廃絶は今の生活の仕方を放棄することとほぼ同じなのです。

(4)綺麗なごみと国立公園、そして観光
 話題を変えて、観光の話をしましょう。日本政府観光局(JNTO)は、海外から日本へ観光客を呼び込むための活動をしている国の機関で、海外からの訪日旅行者(訪日外国人、インバウンド)を誘致する活動を行う独立行政法人。現在は世界14都市に海外事務所を設置し、外国人旅行者受け入れ体制の整備、ビジネスイベントの誘致、ビジット・ジャパン事業の推進などを行っています。インバウンドの観光客の目覚ましい増加とオリンピック・パラリンピックの開催は観光に携わる人々、組織を浮足立たせるほどで、外国人観光客がより重要な外国人労働者や移民の話題を背後に隠してしまっています。
 観光学には「ビジネスとしての観光」、「地域社会における観光」、「文化現象としての観光」の三分野があると言われます。「ビジネスとしての観光」では「経営」の視点から、「地域社会における観光」はまちづくりや建物がもつ役割といった視点から、「文化現象としての観光」は観光と文化の視点から考えることになっていますが、中身は心許なく、とても若い、始まったばかりの学問で、今すぐに頼りになるとは到底思えません。
 そんな中で日本は「観光立国」を掲げ、3,000万人の外国人観光客を迎え入れようとしています。これは経済的に重要な目標である反面、迎える側の一般市民としては心配な面が多いのです。観光産業でお金を稼ぐことは大切なのでしょうが、地域の人すべてが観光産業に従事しているわけではありません。観光以外の業種の人々と摩擦を起こさず、観光産業を持続的に成り立たせていくための方法など誰にもわかっていません。
 観光業界の中でもホテル・旅館業界に大きな変化が起こっていますが、特に「民泊」(戸建住宅や集合住宅などの民家の空き家や空室を宿泊用に貸し出す業態)については旅館業界からの強い反対がある一方、これまで宿泊業には関わってこなかった不動産仲介事業者などからも遊休資産の活用法として取り組む動きが出てきています。でも、私のマンションを含め、都内のマンションでは民泊反対が強く叫ばれています。また、安価で手軽なインターネットでの旅行予約サービスの普及、そしてLCCの普及は、従来の旅行代理店の存在意義を問う状況をつくり出しています。
 巡礼、探検、登山、冨士講、LCC、クルージング、修学旅行、海外旅行、バックパッカー、温泉、湯治といった言葉を挙げると、それらが各時代、各地域で人々に旅を動機づける流行を生み出してきたことがわかります。社会の流行を生み出す人が一番強く、その抜きん出たアイデアによって圧倒的に利益を独占できます。次の段階は、それを政策化、組織化して広める役所の仕事です。その役所の施策の情報にいち早く飛びつき、それを具体化するのが地方の行政組織です。これは妙高市を含む地方都市がこれまで中央の役所に対して懸命に行ってきたことです。他の自治体より一歩でも二歩でも早く具体的なプランを知り、それを練り上げ、できれば多くの補助金を受けること、それが市長や市役所が行う重要な仕事でした。ここには自らの夢や希望の余地がほとんどないのですが、それが現実であり、地方都市は中央官庁に従うしかない構図が長い間に渡って維持されてきたのです。
 最近のインバウンド政策についても、国の政策がもっぱら優先し、地方の政策など見えてこないのですが、それは地方が頑張っていることを否定するものではありません。国立公園を含む観光地として妙高市にできることは何でしょうか。自らが流行を生み出せるほどの企画やアイデアがあればそれに越したことはないのですが、それは流行歌手を生むのに似て誰にも簡単に予測できるものではありません。国の方針、施策に関しては市長や市役所の粘り強い対応に信頼を置いて任せておきながら、私たちは市民レベルで何ができるか考えるのが得策と思われます。というのも、市役所というのは意外に市民には冷たく、市民の意見は丁寧に無視されるのが普通なのですから。
 そんな中で、妙高市民が独自に実行できそうなこととなれば、頑固一徹、正直一筋に、本物を変えない活動と言うことになるでしょう。実業に近い観光となれば、宣伝と通知、集団と個人、開発と保全に関して、前者を優先することになるでしょうし、これからもそれは変わりません。そんな慣習や定石を無視して、個人レベルで簡単にできることから始めてみるしかありません。それは、既述のごみのことを思い出すなら、国立公園内では、レジ袋を一切使わない、徹底して清掃を行う、といった簡単なことを実践することです。ごみは必要悪ですが、せめて綺麗なごみを出すようにしようというのが私たちにまずできる些細な試みです。それがさらに進んで、ペットボトルやビニール製品にまで広がるともっといいでしょう。また、観光案内を徹底して統一、市役所や観光局のFacebookを多言語化、窓口としてビジターセンターを一本化し、その対応を多言語化することです。たったこれだけのことで、国立公園内のごみは綺麗なごみに変わり、リサイクルが可能になり、インバウンドの旅行者が無理なく観光を楽しめることになります。大したお金はかかりません。これは子供の夢のようですが、それが強みでもあるのです。唯一必要なのは市民の僅かな協力だけで、市長や市役所が気づくのは後で一向に構わないのです。

(5)自然との共生
 「共生」という言葉は耳に心地よく響きます。そのためか、生物学だけでなく、福祉、環境、文化、社会などの幅広い分野でキーワードとして引っ張りだこです。「多文化共生」、「男女共生」、「地域共生」などの熟語があちこちに溢れています。「共生」は文字通り「共に仲良く、助け合いながら生きる」ことだと疑うことなく思い込まれているのです。
 人々は「寄生」ではなく、「共生」という言葉に惹かれ、それに悪い印象を抱きません。ところが、共生関係は状況によって「相利的」になったり、「寄生的」になったりし、人間関係が「利己的」になったり、「利他的」になったりするのに似ているのです。
 社会では、お互いが利益を得ているような関係を「共生」関係と呼んでいますが、生物学では、そのような関係はより厳密に「相利」と表現されます。生物学における「共生」はもっと広く、文字通り「共に生きている」ことを表現しているだけ。仲がよく見える友だちでも、一皮むけばどろどろした確執があったりします。生物学の「共生」という言葉も似たようなもので、複数の生物が密接に相互作用しながら共に生活していれば、それだけで「共生」関係があると見做すのです。
 氾濫する「共生」という言葉を見直すと、「共生」の本質には搾取、抑圧、寄生、対立が内包されていることがわかります。生物の多様な共生現象をみつめ続けていくと、「共生」という関係は固定したものではなく、状況や環境に応じてダイナミックに変化しています。「共生」という言葉が醸し出す理想的なイメージには惑わされず、平和的、利他的にみえる「共生」関係は、一皮むけばダイナミックな緊張が見られ、当事者間には競争があるのです。そして、それこそ共に生きることの本質なのです。そこで、自然全体と人間という大規模な共生について、インフォーマルに眺めてみましょう。
 花々の手の込んだ誘惑は圧倒的で、私が昆虫だったら、抵抗の術がありません。誘惑にのるように仕組まれた私の生得的な性質は私の行動を支配し、花々は私を家来の如くに操ってきました。私を虜にする色、形、そして、私を縛る香りや匂い。巧みな手練手管に翻弄される私は極楽を味わいながら、いつの間にか奉仕させられる羽目に陥るのです。
 このことは私が人間であっても同じで、風景や景色の見事さに私たちは言葉を失う程に酔い痴れ、自然の誘惑には手も足も出ないのです。花が昆虫を支配するように、「自然の恵み」は私たち人間を支配します。自然が花々を含む恵みを生み出し、それらを使って私たちを支配するのだとすれば、結局私たちは昆虫と何ら変わらないのです。
 このように自然やその中の事物に支配され、翻弄される人間像は、今の私たちには馴染みの薄いものです。近代以降私たちは自然を支配し、自然の中のものを搾取しながら生きてきました。その生き方が大成功だったゆえに、勝利した人間は一方的に自然を食いものにし、利用できると信じたのです。でも、自然も人間に負けじと人間たちを利用していることを失念してしまったのです。
 自然はやられたらやり返します。虐められたら虐め返すのが自然です。共生や寄生、正や負の相互関係が自然やその中の事物の間にあり、一方的な支配関係は稀で、相互にその関係が入れ替わるような変化が起き続けているのです。今日の敵は明日の味方であり、主従関係は目まぐるしく変化し、下剋上の世界が展開されているのです。
 このように見てくるなら、半世紀以上続く環境問題は自然の仕返しだと考えることができます。人間はまず自然の恵みに魂を奪われ、魅了されました。例えば、花の企みに乗せられたのです。でも、次に人間はそれを巧みに利用して花ビジネスを成功させます。すると、その次は花の逆襲となります。そんな繰り返しが自然と人間の間で起こっていて、それが今の環境問題に繋がっているのです。今の環境問題とは私たちが搾取してきた自然の私たちへの仕返しなのです。そして、それが自然と私たち人間の共生関係の内容なのです。やられたらやり返す、好きになったら、それを巧みに利用する、そんな共生の中で私たちは生きているのです。それは因果応報の世界なのです。

(6)実業と虚業実学と虚学
 タイトルのように並べると、いずれが最初か妙に気になります。ここでは実業を衣食住に直接かかわる活動と考えておきましょう。すると、そうでない活動が虚業ということになります。学問、科学、文学などは衣食住に間接的に関わるという意味で、まずは虚業に分類されるでしょう。科学から生まれる成果としての知識が衣食住に関わり、それらを変えることができる技術になると、実学に変わり、そうではなく衣食住以外の快楽に係るだけのものが虚学ということになるでしょう。
 実学の反対にあるのが虚学で、私が属していた文学部など虚学の権化と捉えられてきたのが日本の歴史です。理系と文系の違いを実学と虚学の違いであると真顔で受け取る日本人は未だに少なくありません。我田引水になりますが、それを変える一つが20世紀の初頭から始まる論理学や数理哲学の革新です。フレーゲラッセル、ゲーデルチューリングらの基礎的、哲学的な研究は数学者からの冷たい反応、いじわるを受けながらも、大きな成果を上げ、その成果は技術として着実に積み重ねられ、虚学から実学への見事な変身を遂げるたのです。それがコンピューター科学であり、今のIT産業へとつながっています。さらに別の例を挙げれば、アインシュタイン量子力学批判です。相対性理論で画期的な仕事を成し遂げたアインシュタインはずっと量子力学が不完全だと主張し続け、正統的なコペンハーゲン解釈に一貫して反対していました。そして、その主張を具体化してみせたのがEPR論文(A. Einstein, B. Podolsky, and N. Rosen (1935), Can Quantum-Mechanical Description of Physical Reality be Considered Complete?, Phys. Rev. 47 (10): 777-780.)でした。その論文内容から量子コンピューターという考えが生まれ、今では実用化に向かって研究が進んでいます。
 どんな知識も好奇心から始まり、虚業、虚学として夢想され、哲学されて、鍛えられていきます。理論化され、それが具体的な試みに繋がり、技術化され、実用化に至ると、何と実業、実学に化けるのです。虚業と実業、虚学と実学は概して人が勝手に分けた、大した理由のない分類に過ぎないのです。
 観光も虚業から実学を使って、実業化され出します。これはコンピュータ科学と同じです。その実業化の中でインバウンドなどの議論が活発化しています。どんな風に実業となるのか、今のところ幾つかの例しかわかっていません。その材料となる例は世界有数の観光地、観光資源であり、自然、歴史、文化が実業化の三大柱となってきました。妙高市の観光が今後どうなるか、素人の私にはわからないことばかりで、自らの意見などもてそうにありません。まだ虚業、虚学に過ぎないのであれば、皆が賛成し、文句の出ないことから始めることしかできません。
 妙高戸隠連山国立公園の自然環境は脆く壊れやすいこと、それを何とか保持し、守ろうとすると、何ができるのでしょうか。まずできることとなれば、綺麗なごみを出すこと。ごみを出さないことは今のところできそうにありませんから、出すからには綺麗なごみを出そうということ。わかりやすい情報を提供すること、これも基本中の基本で、インバウンドを考慮し、情報は多言語で表示することが付け加わることになります。他の地域がどのような試みをするかを見守りながらも、自分たちはまずこれを一途に実行する。その姿勢によって国立公園の私たちなりの観光の一歩を踏み出せる筈です。

(6)最後に
 妙高市は国立公園を含み、古来の温泉やスキー場をもつ観光地域であり、農産物の集散地でもありました。他の日本の地方都市と同じように過疎化と隣り合わせで、都市としての発展が見通せない状況にあります。ごみ、国立公園、観光と組み合わせるなら、どんなアイデアが得られるのか。それが課題でした。大人は知識を開陳しても意見は言わないものです。ですから、子供に聞いてみよう、子供のように答えてみよう、というのがこれまで述べてきたことなのです。それも一つの手だと思っています。これまで述べてきたことを一つのメッセージにまとめれば、次のように表現できるでしょう。

 脆い国立公園内では綺麗なごみを出し、公園と訪れる人々との共生を実現しよう!