綺麗なごみと観光(2)

(4)綺麗なごみと国立公園、そして観光
 日本政府観光局(JNTO)は、海外から日本へ観光客を呼び込むための活動をしている国の機関で、海外からの訪日旅行者(訪日外国人、インバウンド)を誘致する活動を行う独立行政法人。現在は世界14都市に海外事務所を設置し、外国人旅行者受け入れ体制の整備、ビジネスイベントの誘致、ビジット・ジャパン事業の推進などを行っている。インバウンドの観光客の目覚ましい増加とオリンピック・パラリンピックの開催は観光に携わる人々、組織を浮足立たせるほどで、外国人観光客がより重要な外国人労働者や移民の話題を背後に隠してしまっている。
 観光学には「ビジネスとしての観光」、「地域社会における観光」、「文化現象としての観光」の三分野があると言われる。「ビジネスとしての観光」では「経営」の視点から、「地域社会における観光」はまちづくりや建物がもつ役割といった視点から、「文化現象としての観光」は観光と文化の視点から考えることになっているが、中身は心許なく、とても若い、始まったばかりの学問で、今すぐに頼りになるとは到底思えない。
 そんな中で日本は「観光立国」を掲げ、3,000万人の外国人観光客を迎え入れようとしている。これは経済的に重要な目標である反面、迎える側の一般市民としては心配な面が多い。観光産業でお金を稼ぐことは大切なのだろうが、地域の人すべてが観光産業に従事しているわけではない。観光以外の業種の人々と摩擦を起こさず、観光産業を持続的に成り立たせていくための方法など誰にもわかっていない。
 観光業界の中でもホテル・旅館業界に大きな変化が起こっているが、特に「民泊」(戸建住宅や集合住宅などの民家の空き家や空室を宿泊用に貸し出す業態)については旅館業界からの強い反対がある一方、これまで宿泊業には関わってこなかった不動産仲介事業者などからも遊休資産の活用法として取り組む動きが出てきている。だが、私のマンションを含め、都内のマンションでは民泊反対が強く叫ばれている。また、安価で手軽なインターネットでの旅行予約サービスの普及は、従来の旅行代理店の存在意義を問う状況をつくりだしている。
 巡礼、探検、登山、冨士講、LCC、クルージング、修学旅行、海外旅行、バックパッカー、温泉、湯治といった言葉を挙げると、それらが各時代、各地域で人々に旅を動機づける流行を生み出してきたことがわかる。社会の流行を生み出す人が一番強く、その抜きん出たアイデアによって圧倒的に利益を独占できる。次の段階は、それを政策化、組織化して広める役所の仕事である。その役所の施策の情報にいち早く飛びつき、それを具体化するのが地方の行政組織である。これは妙高市を含む地方都市がこれまで中央の役所に対して懸命に行ってきたことである。他の自治体より一歩でも二歩でも早く具体的なプランを知り、それを練り上げ、できれば多くの補助金を受けること、それが市長や市役所が行う重要な仕事だった。ここには自らの夢や希望の余地がほとんどないのだが、それが現実であり、地方都市は中央官庁に従うしかない構図が長い間に渡って維持されてきたのである。
 最近のインバウンド政策についても、国の政策が優先し、地方の政策など見えてこないのだが、それは地方が頑張っていることを否定するものではない。国立公園を含む観光地として妙高市ができることは、自らが流行を生み出せるほどの企画やアイデアがあればそれに越したことはないのだが、それは流行歌手を生むのに似て誰にも簡単に予測できるものではないのである。国の方針、施策に関しては市長や市役所の対応に信頼を置いて任せておきながら、私たちは市民レベルで何ができるか考えるのが得策と思われる。市役所というのは意外に市民には冷たく、市民の意見は丁寧に無視されるのが普通なのだから。
 そんな中で、妙高市民が独自に実行できそうなこととなれば、頑固一徹、正直一筋に、本物を変えない活動と言うことになるだろう。実業に近い観光となれば、宣伝と通知、集団と個人、開発と保全に関して、前者を優先することになるだろうし、これからもそれは変わらない。そんな慣習や定石を無視して、個人レベルで簡単にできることから始めてみるしかない。それは、既述のごみのことを思い出すなら、国立公園内では、レジ袋を一切使わない、徹底して清掃を行う、といった簡単なことを実践することである。ごみは必要悪だが、せめて綺麗なごみを出すようにしようというのが私たちにまずできる些細な試み。それがさらに進んで、ペットボトルやビニール製品にまで広がるともっといいだろう。また、観光案内を徹底して統一、市役所や観光局のFacebookを多言語化、窓口としてビジターセンターを一本化し、その対応を多言語化することである。たったこれだけのことで、国立公園内のごみは綺麗なごみに変わり、リサイクルが可能になり、インバウンドの旅行者が無理なく観光を楽しめることになる。大したお金はかからない。これは子供の夢のようだが、それが強みである。唯一必要なのは市民の僅かな協力だけで、市長や市役所が気づくのは後で一向に構わないのである。

(5)実業と虚業実学と虚学
 タイトルのように並べると、いずれが最初か妙に気になる。ここでは実業を衣食住に直接かかわる活動と考えておこう。すると、そうでない活動が虚業ということになる。学問、科学、文学などは衣食住に間接的に関わるという意味で、まずは虚業に分類されるだろう。科学から生まれる成果としての知識が衣食住に関わり、それらを変えることができる技術となると、実学に変わり、そうではなく衣食住以外の快楽に係るだけのものが虚学ということになるのだろう。
 実学の反対にあるのが虚学で、私が属していた文学部など虚学の権化と捉えられてきたのが日本の歴史である。理系と文系の違いを実学と虚学の違いであると真顔で受け取る日本人は未だに少なくない。我田引水になるが、それを変える一つが20世紀の初頭から始まる論理学や数理哲学の革新である。フレーゲラッセル、ゲーデルチューリングらの基礎的、哲学的な研究は数学者からの冷たい反応、いじわるを受けながらも、大きな成果を上げ、その成果は技術として着実に積み重ねられ、虚学から実学への見事な変身を遂げるのである。それがコンピューター科学であり、今のIT産業へとつながっている。さらに別の例を挙げれば、アインシュタイン量子力学批判。相対性理論で画期的な仕事を成し遂げたアインシュタインはずっと量子力学が不完全だと主張し続け、正統的なコペンハーゲン解釈に一貫して反対していた。そして、その主張を具体化してみせたのがEPR論文だった。その論文内容から量子コンピューターという考えが生まれ、今では実用化に向かって研究が進んでいる。
 どんな知識も好奇心から始まり、虚業、虚学として夢想され、哲学されて、鍛えられていく。理論化され、それが具体的な試みに繋がり、技術化され、実用化に至ると、何と実業、実学に化けるのである。虚業と実業、虚学と実学は概して人が勝手に分けた、大した理由のない分類に過ぎないのである。
 観光も虚業から実学を使って、実業化され出す。これはコンピュータ科学と同じである。その実業化の中でインバウンドなどの議論が活発化している。どんな風に実業となるのか、今のところ幾つかの例しかわかっていない。その材料となる例は世界有数の観光地、観光資源であり、自然、歴史、文化が実業化の三大柱となってきた。妙高市の観光が今後どうなるか、素人の私にはわからないことばかりで、自らの意見などもてそうにない。まだ虚業、虚学に過ぎないのであれば、皆が賛成し、文句の出ないことから始めることである。
 妙高戸隠連山国立公園の自然環境は脆く壊れやすいこと、それを何とか保持し、守ろうとすると、何ができるのか。まずできることとなれば、綺麗なごみを出すこと。ごみを出さないことは今のところできそうにないので、出すからには綺麗なごみを出そうということ。わかりやすい情報を提供すること、これも基本中の基本で、インバウンドを考慮し、情報は多言語で表示することが付け加わることになる。他の地域がどのような試みをするかを見守りながらも、自分たちはまずこれを一途に実行する。その姿勢によって国立公園の私たちなりの観光の一歩を踏み出せる筈である。

(6)最後に
 妙高市は国立公園を含み、古来の温泉やスキー場をもつ観光地域であり、農産物の集散地でもあった。他の日本の地方都市と同じように過疎化と隣り合わせで、都市としての発展が見通せない状況にある。ごみ、国立公園、観光と組み合わせるなら、どんなアイデアが得られるのか。それが課題だった。大人は知識を開陳しても意見は言わない。だから、子供に聞いてみよう、子供のように答えてみよう、というのがこれまで述べてきたこと。それも一つの手だと思っている。
 脆い国立公園内では誰もが綺麗なごみを出そう!!