2018-01-01から1年間の記事一覧

我流の哲学史雑感

<心躍った「哲学史」読書体験> 大学で哲学を学ぼうと思った私は哲学史には関心がなかった。そんな私が1年生の夏休みに読んだのがバーネットのEarly Greek Philosophy(John Burnet, London and Edinburgh: A. and C. Black, 1892.)だった。きっと英語の勉…

「我」の始まりと終わり

我を忘れ、我にかえる。我がつくられ、我がこわれていく。 子供時代に熱中し、夢中になり、我を忘れた経験のどれだけをはっきり憶えているだろうか。そんなことをふと思い始めると、「我を忘れて遊んでいたことをどうして私が想い出せるというのか」といった…

公園のコサギ

深川には川が多く、古石場川も大横川と平久川をつなぐ木材屋用の掘割・運河だった。今ではその川を残し、かつての川辺は古石場川親水公園に生まれ変わっている。この公園には七つの橋が架けられていたが、その一つ小津橋は小津安二郎を生んだ小津家に由来す…

キクやバラの企み

キクが私を誘惑し、バラが私を酔わすのはいずれもその花を巧みに使ってのことだと妄想するのは常軌を逸している、というのが常識。だから、キクもバラも自らの意図をもっているなどと誰も考えない。でも、誰にも知られないようにキクもバラも、そして植物は…

一輪のガーベラから…

一輪のガーベラから…(1) 居間にガーベラの黄色い花が見える。そのガーベラを見て、薔薇より菊に似ているとふと感じたのだが、それが本当かどうか暫くして気になり出した。薔薇と菊という対比は私のような世代には珍しいことではなく、つい大上段に振りかぶ…

茫然自失、熱中、没頭から我にかえる

あっけにとられたり、あきれ果てたり、私たちには我を忘れて、茫然自失することがしばしばある。それは日常生活では珍しいことではない。また、私を忘れて行動するのがむしろ普通のことで、子供たちは我を忘れて遊びに没頭する。子供だけではなく、大人でさ…

激辛ではないトウガラシ

唐辛子というと私など鷹の爪が頭に浮かぶのだが、「内藤とうがらし」はマイルドな辛みと旨味が特徴のトウガラシ。唐辛子というと文字通り「辛い」というイメージが強いが、内藤とうがらしには昆布のような旨みがある。そして、食材同士を調和させるまとめ役…

固有名や種名は物自体を指すのか、その記述の束を指すのか

固有名詞は確定記述(definite description)によって表現されるようなものか、それとも端的に対象を指示するのか。このような問題が20世紀の後半に言語哲学的な問題として盛んに議論された。同じ頃、生物種は実在的なものか否かが問題になっていた。それら…

ゴードニア・ラシアンサス(Gordonia lasianthus)

このところ街中のサザンカが赤い花をつけ始めた。たき火など見ることができなくなった昨今だが、サザンカはあちこちで花をつけている。ツバキの花はまだでも、カンツバキ(寒椿、ツバキとサザンカの交雑種)は花をつけ出している。 タイワンツバキ(Gordonia…

好きなのは性質、それとも物自体

「誰が好きですか」という問いについて、それはどんな問いかなどと誰も改めて問いません。疑問の余地のない問いとして通用しています。「Aさんが好き」と答え、「Aさんの何が、どこが好き」と問い返されても淀むことなく答えることができます。「Aさんの律義…

エリカホワイトデライト

透明感のある淡いピンクの色づきが素敵なエリカホワイトデライト。なぜこんな細長くて透明な花の姿になったのか不思議である。きっと何かに適応しての進化の結果なのだろうが、その理由はわからず、花の多様な容姿にただ驚き、愛でるしかない。 「エリカ」に…

クオリアと物自体

ヘレン・ケラーは全盲全聾でありながら、言葉の獲得を通じて、人間として見事に生き抜くことができた。ほぼ 動物だったヘレンを人間にしたのがサリバン女史だった。人類が言葉を獲得することによって進化の歴史の中で勝者になれたように、ヘレンも言葉を知る…

イロハモミジ

子供の頃の田舎の秋はモミジ、その後の東京の秋はイチョウ、それが今でも私の秋の風景の肝心の材料である。今年は台風のためか、例年と比べ、紅葉の色が今一つ冴えない。それでもイチョウと共に、東京のイロハモミジは今が見頃である。 イロハモミジ(いろは…

現象や仮象、実在や物自体

彼岸でも此岸でも「仮象(Schein)」とは架空のもの、フィクション、創作されたもののことです。偽物であって実在しなくても、美術作品、文学作品の中の仮象は有意味で、必要なものだと思われています。プラトンは「イデア」こそが真の実在で、知覚される現…

アネモネ

アネモネは南ヨーロッパ地中海沿岸原産で、明治初期に渡来。和名はボタンイチゲ(牡丹一華)、ハナイチゲ(花一華)、ベニバナオキナグサ(紅花翁草)。古くから人との関わりが深く、神話や伝説にも多く登場しているのがアネモネ。語源はギリシャ語で「風」…

物自体、空間、時間:素人の疑問

カントは『純粋理性批判』という厳めしいタイトルの第一部「超越論的感性論」(このタイトルはさらに厳めしい)で、時間と空間に係る議論を展開している。人が対象を知るのは、知る対象が私たちの意識を刺激することから始まると捉えられ、その刺激に対する…

シコンノボタン・コートダジュール

ほぼ1年中花が見られるのが特徴で、いつも楽しませてもらっている。一般的にノボタンといえばシコンノボタン(紫紺野牡丹)をさすことが多い。秋から初冬にかけて赤~青紫の大きめな花を咲かせ、夏の初めまで続く。花つきがよく、次々と咲いてくれる。葉はよ…

物自体、そして、空間と時間についての夢想(2)

哲学的な話から進化の話への移行は、時間や空間、物自体についての不毛な議論への不満の表れでもある。そこで、異なる観点から話し直してみよう。「決める」と「決まる」についてこれまで何度か考えてきた。そして、科学は因果的に決まる現象を説明し、論理…

物自体、そして、空間と時間についての夢想(1)

空間と時間は世界や対象が持つ客観的な性質ではなく、人間の主観的な形式だと主張したのがカント。彼にとって空間と時間とは、事物(感覚の対象、物自体)がもつものではなく、認識主観がもつアプリオリな能力だった。 *私たち一人一人がもつ時間や空間は事…

バンクシア・エリキフォリア(Banksia ericifolia)

バンクシアはブラシの木と似ているが、ヤマモガシ科バンクシア属で、オーストラリアのニューサウスウェールズ州の東部に分布する。樹高は4mほど。葉は線形で、長さは15mmほど。秋から冬にかけて、長さ50-60cmの円筒形の花序を出し、橙色の花を咲かせる(画像…

イソギク

イソギク(磯菊)はキク科キク属の植物で、既にここでも取り上げた。二つの画像を比較すると花が随分違うことにすぐ気づくだろう。実際、全体の印象も異なる。この違いは何かの解明が今回の目的である。 磯の菊ということからイソギク(磯菊)の名があり、多…

ソライロアサガオと「朝顔図屏風」

誰もが知るアサガオは奈良時代に中国から渡来し、薬草として用いられたのが始まりです。アサガオが観賞用として流行するようになったのは江戸時代。「大輪アサガオ」や、葉や花がユニークに変化した「変化咲きアサガオ」がつくられ、白色のアサガオが登場、…

花の色:色素、感覚質、常識

人は、花の命がその形と色にあると思い、様々な形と色の実現に魅了されてきました。私たちが花の形態と色彩を別々に知覚することはまずなく、一方だけを考えること自体とても例外的、人為的なことなのですが、それでもあえてその色に注目してみましょう。私…

寒木瓜(かんぼけ)

ボケ(木瓜)はバラ科ボケ属の落葉低木で、花木として植栽されてきたため、多くの園芸品種があります。和名の由来ははっきりしませんが、実が瓜のような形をしているところから木瓜の名がついたと言われています。ボケの開花時期は、11月末から 4月中旬頃。1…

皇帝ダリア(2)

一週間ほど前に皇帝ダリアについて述べた。そのダリアが木場公園で見事に咲いている(画像)。そのキダチダリア(木立ダリア)は高さ5m程もある。10mにもなる高さから、正に「皇帝」という名前に相応しい。花は直径約20㎝の大輪の花が茎の頂上につく。晩秋の…

生得的なものの中で、何が獲得的なのか?

(少し前に書いたものの修正版) 「本能の学習」とは「丸い三角形」のように論理的に矛盾した概念だというのが世の常識です。筋金入りの経験主義者なら、「生得性」を一切否定し、生まれたときはtabula rasa(白紙)の状態であり、すべては学習して経験的に…

ミヤマシキミ(深山樒、Skimmia japonica)

本州から九州の山地に見られるミカン科ミヤマシキミ属の常緑低木。10月頃に成熟する赤い実はマンリョウなどと同じく、庭園に彩を添えることから、庭木として用いられてきた。実は直径1㎝近くでマンリョウよりも大きいため、オクリョウ(億両)という呼び名も…

実在と感覚質の表現:中途報告

これまで何回か、実在、感覚質、そして、それらの言語表現について考えてきました。ジャングルに踏み入ったままという印象が強いので、ちょっと立ち止まり、主なものをまとめておきましょう。 (順不同)(1)かつてアリストテレスやその哲学を引き継いだト…

ダリア

メキシコの国花で、キク科ダリア属の植物の総称。和名は、花の形がボタンに似ているため、天竺牡丹。夏から秋にかけて開花し、大きな花輪と色鮮やかな花色と咲き方が特徴。ダリアの故郷はメキシコからグアテマラにかけての高地で、1789年にスペインのマドリ…

二つの説明と私の感覚経験

(1) 色覚とは可視光線(400~800 nm)の各波長に応じて生じる感覚のこと。網膜には、長波長(565 nm)、中波長(545 nm)、短波長(440 nm)付近の光に感度の高い視物質を持つ三種類の錐体(すいたい)が存在し、それぞれL-錐体(旧:赤錐体)、M-錐体(旧…