「我」の始まりと終わり

我を忘れ、我にかえる。我がつくられ、我がこわれていく。

 子供時代に熱中し、夢中になり、我を忘れた経験のどれだけをはっきり憶えているだろうか。そんなことをふと思い始めると、「我を忘れて遊んでいたことをどうして私が想い出せるというのか」といった覚めた問いが浮かび上がってくる。我を忘れていたのだとすれば、当然忘れている間、私はその時の自らの意識内容を想い出せないのではないのか、とつい自問自答したくなる。惨事に茫然自失しても、その記憶は鮮明に残っているのが人の常で、怒りに我を忘れても何に怒ったか記憶することを忘れているわけではない。我を忘れても我が経験したことは忘れないで憶えている。
 多重人格者は複数の人格を同時に意識することがないとよく言われる。また、認知症の人たちは自らの自己意識を暫し忘れ、またそれが復帰すると言ったことを繰り返すようである。健常者でも寝ている間は自意識も寝ているかのようで、夢の中の自意識は覚醒時と連続してはいない。人の自意識がしばしばその人から離れるのは誰にもどこでも起こることなのである。
 アスリートが身体を鍛え、身体が技を覚え、憶えた技を維持するために練習を繰り返す。練習を休めば身体はその技を忘れ、その忘れを思い起こすために練習をやり直す。技がつくられ、技を忘れ、技を思い出し、それを繰り返しながらも、終には完成された技がこわれていく。それと似たようなことが私たちの記憶についても成り立っているように思えてならない。そして、それは記憶だけでなく、私たちの「自我、自己、自意識」などにも同じように成り立っているのではないだろうか。
 我を忘れて熱中できるのは、我にかえることができるからである。そんな我が一度つくられると、その我を信頼して生活できるのだが、それは長続きするものではない。頑強な身体が老いるように、つくられた我はこわれる運命にある。こわれだすと、我を忘れ、我にかえることがスムーズに行かなくなる。そうなると、我は消えて行くことになる。残酷なのは一挙に消えるのではなく徐々に消えて行くことである。我は我がこわれていくことを自ら経験することになる。我がつくられるときに気づかなかったことを我がこわれる際にはまざまざと経験することになる。とはいえ、忘れることとこわれることが組み合わされて、こわれることの一部始終を経験しないようにできているのも確かで、こわれて想い出せないことの効用も忘れてはならない。
 一度我がつくられると、日常の周期的な繰り返しに律儀に従い、我を忘れ、我にかえることを反復するのだが、その規則的な反復がこわれだすと、それによって生活のリズムが狂い、我がこわれることに繋がっていく。これが我の一生ということか。そうとなれば、我の一生は私の身体の一生とも私の一生とも違うことになる。そして、我の一生の方が私や私の身体より短いことになる。