茫然自失、熱中、没頭から我にかえる

 あっけにとられたり、あきれ果てたり、私たちには我を忘れて、茫然自失することがしばしばある。それは日常生活では珍しいことではない。また、私を忘れて行動するのがむしろ普通のことで、子供たちは我を忘れて遊びに没頭する。子供だけではなく、大人でさえ「私」を意識して考え、振舞い、振り返ることなどほとんどなく、大抵の時間は我を忘れて行動しているのではないだろうか。私が私自身だと誇れる自己意識は、私が人間であることの証拠だというのが近代社会の原点だったから、自分が誰かわからない、自分を見失っていることは異常な状態だと思われてきたのではないのか。とはいえ、我を忘れて熱中することと茫然自失して立ちすくむのとではまるで違うことも確かであるが…
 「私」を意識し、「私」を忘れ、また「私」にかえり…といった交互の繰り返しが続いているのが「私」の日常の生活なのである。
 物自体は現象の条件や原因だが、私たちにはわからないものだというのがカントの主張だった。だが、私自身を知ることがソクラテスプラトンだけの目標ではなく、私たちの目標にもなっている。私自身が物自体のようなものなら、私自身はわからないものというのがカントの主張になる。そんなことをカントが主張する筈がないから、「物自体」と「私自身」は違う概念ということになるのだろう。
 私は自らをあなたを知るような仕方で知ることができる(と思われている)。私はあなたを観察し、あなたと話し、あなたの行動を吟味し、あなたを知ろうとする。その結果、あなた自身をわかったと思う場合も、あなたは謎の人だと匙を投げる場合もあるだろう。それと同じことが私自身についても言えて、私は私自身を知る機会に恵まれる場合も、いつまでたっても私自身がつかめない場合もあると考えられている。だが、それだけではなく、私は自己意識を直接にもつことができ、それは内的な直観によって知ることができ、それゆえ私に特権的な事柄であるとも考えられている。だから、「私」、「私自身」という表現はこの直観を指している場合が多い。
 私は好きな時に「私」を直観でき、その直観を離れて他の作業に熱中、没頭できる。これが私の生活世界での姿ということになっている。だから、茫然自失、熱中、没頭もそのような生活世界での一コマに過ぎない。
 このような「私」、つまり自己意識と、ソクラテスの「汝自身を知れ」の「汝」とは随分と隔たりがあるように感じられる。その隔たりとは、自分を直観することと自分を分析して、その真の性質を知ることとは違うということである。成程、自分を反省して、自分の姿を知ることと、自分を意識的に直観することの間には大きな溝がある。未知のものを観察して、それが何かを探り当てることと、自分を意識して一喜一憂することとは大きく異なる。少しズレるが、「直観知」と「分析知」とでも言えないことはない。
 時には茫然自失して、慌てふためき、途方に暮れ、そこから希望を見出していく道筋の一つが人間の場合は「知る」ことである。そして、我にかえり、その知ったことを振り返り、反省するのも人間の場合は「知る」ことに帰着する。
 そんな人間が茫然自失したままになってしまうと、知ることができないことになる。そろそろそのようなことが自分自身にも起き出す頃だと思うと、熱中、没頭、茫然自失から我にかえる(返る、帰る、戻る)ことのありがたさを心底感じてしまうのである。