「街道」補足

 昨日は私が子供の頃の北国街道などについて述べました。ところで、『街道をゆく』は司馬遼太郎による紀行文集。街道という切り口を通じて、各地の歴史や風俗についての考察が展開されます。1971(昭和46)年に『週刊朝日』誌で連載が始まり、1996(平成8)年終了。単行本は第1巻「甲州街道、長州路ほか」が1971(昭和46)年刊行、最終巻「濃尾参州記」(未完)は1998(平成10)年刊行。

 琵琶湖の北岸の滋賀県海津から北進し、福井県敦賀から武生に入り、「北国街道」を滋賀県・木之本まで至るみち、中世信濃の武士団の興亡を思った信州佐久平みち、耕作の土地に恵まれなかった人々の苦労の歴史にひかれ、新潟の低湿地を訪れた潟のみちなどがあっても、北国街道の善光寺から高田城下までは何も記されていません。出雲が丁寧に紹介されても、小出雲は登場しません。司馬の街道記にはそれぞれの土地の歴史や文化が埋め込まれ、巧みな文章でそれが見事に描かれているのですが、私には故郷の街道には別の意味も含まれているように思えてならないのです。

 人が二足歩行を獲得するまでの生物の歴史の中で、動物の様々な運動能力が試され、生物の移動が実現されてきました。海を泳ぐ、空を飛ぶ、地を駆ける、森を伝わる等々、そして、森を出て、地を歩くことを始めたのがヒトでした。そして、勇気が必要な二足歩行は今のヒトの繁栄を生み出す源の一つになりました。さらに、ヒトの二足歩行は移動のための道をつくり出すことになります。

 集団生活する人にとって、移動手段である道はその生活を大きく変え、経済活動が盛んになり出します。二足歩行するヒトにとって、道は生存のための必須条件の一つであり、自然と文化がミックスする最初の人工物の一つであり、住居や集落と並ぶものでした。長い、大きな道としての街道はヒトの生活を支える背骨となり、ヒトを他の動物から区別する重要な要素の一つとなります。その原始的な要素を色濃く残していたのが私の北国街道の記憶であり、それが飯山街道との違いでもありました。

 昨日の「北国街道と飯山街道を往還する:昭和30年代の小出雲」では次のように述べました。「北国街道と飯山街道という江戸時代以降の幹線道路についての私の想い出はこんなものです。私にとっては圧倒的に北国街道の方が生活の道で、街道をゆくだけでなく、生活空間の重要パートでした。飯山街道は私にはレジャーの道でしたが、横町のバス停で長沢や猿橋に向かうバスを待つ多くの在郷の人たちを今でもよく憶えています。今はどちらの道も狭く、曲がりくねった、目立たない道となっていますが、戦後暫くは人々の生活を支える重要な生活の道だったことは、子供の私もしっかり実感していた気がします。毎日往還を繰り返し、生活を支える道だと直感的にわかっていたように思えるのです。」

 このような人の生活を支える条件の一つとなってきた、道、街道は歴史や文化にとっても不可欠なものですが、その歴史や文化が展開される基本にあるのがヒトの生存、人の集団生活であり、それらにとってこそ不可欠なのです。

*街道の二つの役割

 故郷と他の地域を結ぶ役割を持つのが街道で、「ふるさとを出る、ふるさとに戻る」ための不可欠の手段というのが誰もが考える基本的役割で、そこにさらに様々なものが運ばれる道というのが街道の広義の役割ということになる。

 さらに、「ふるさとをつくる、人と人を結ぶ」という役割が上の役割に加わる。言語、言葉の道、つまり、コミュニケーションの基本の一つが街道なのである。人間的な街道、心と心とを結ぶ街道が言葉であり、道や街道は心を通わせながらのコミュニケーションの象徴なのである。