日曜の断想

 「上越は城下町で、妙高は在郷町」と紋切型に分類されても、何か納得がいかない。謙信が治めていた時の上越は本当に城下町だったのか、現在の上越は城下町かと尋ねられると、なんとも心許なく、いずれをも否定する人が多いだろう。町は城下町、在郷町、門前町、宿場町などに分類されるが、地方の中心地の多くが城下町、そしてどこにでも見られるのが在郷町ということになっている。とはいえ、その分類は実に曖昧なのがよくわかる。

 子供の頃、大人が「ザイゴ」と呼び、それが町場ではなく、「田舎」を指していたのを憶えている。ある種の差別さえ感じられる使い方が多く、自分はザイゴの人間ではないと訳もなく感じていた。その「ザイゴ」が「在郷」と書かれ、ザイキョウとも発音されることを知るのは随分後になってからだった。在郷軍人は「引退し、郷里に住む元軍人」を指し、郷士や郷社は「ゴウシ、ゴウシャ」と発音される。在郷町も「ザイゴウマチ」と呼ばれる。これらはどれも差別用語ではない。

 新潟県にはたくさんの在郷町がある。その多くは、「市(イチ)」が立ったことでできた町。かつての旧市町村の多く、巻、白根、横越、味方など、平野部の多くの市町村が川沿いに発展した在郷町で、六日町、十日町、五日町、一日市など、町名に数字がつく町が多いのも目立つ。新潟、長岡、上越などは在郷町としてできた(少なくとも謙信以前の上越は城下町ではなかった)。

 ところで、「在郷(ザイゴウ、ザイキョウ)」は「田舎」、「農村部」が本来の意味。在郷町は農村の中に形成された町場のことで、主要な街道が通る農村ではその街道沿いに形成される。城郭を中心に栄えた城下町や、宿場中心に形成された宿場町、さらに門前町などと決定的に違うのは、町の核となる施設、建物がないことで、在郷町が農村部で自然発生的にできたものであることをそれは示している。

 北国街道沿いにできた旧新井市街の周りには農村部が散在し、私自身の子供時代の記憶によれば、親戚のあった柳田や西条の家々は街道沿いの街並みとは違った印象を与える農村部だった。とはいえ、小出雲の多くは半ば農村と言ってもよく、農家となれば、ザイゴも町場も変わりはなかった。というより、ザイゴに近いところにいた私には新井の町場は随分と違う風に見えたのだ。

 さて、今でも妙高にはザイゴがあるのだろうか。私が子供の頃の「ザイゴ」と呼ばれた地域は当然今も実在するだろうが、それは今でも当時の「ザイゴ」なのだろうか。あるいは、戦後間もないことの「ザイゴ」と違うなら、今の妙高人はどのように捉えているのだろうか。これは妙高をはるか昔に離れた私には推測できないことで、特に若い人たちがどのように考えているか知りたいものである。