運河のサギたち

 「サギだ」と嬉々として見ると、すぐに「本当にサギなのか」、「どうしてあれがサギだとわかったのか」といった疑念が過ぎる。私の過去の記憶から「あれはサギだ」とわかったのではないかと思う。それが本当に正しいかどうか確信などないのだが、これまでの私の経験から辻褄は一応合っているということなのではないか。私たちの日常生活はこんな雑多な疑問に囲まれている。

 「では、何というサギか」という強迫的な問いがすぐに浮かんでくる。こうなるとまるで自信喪失で、動物図鑑のお世話にならざるを得ない。面倒だが、家に帰ってから調べてみよう、ということになる。最近の図鑑は動植物のスケッチではなく、写真画像がほとんどで、自らのスマホで撮った写真と見比べることになる。老眼の身には何とも厄介なことである。その結果として、まずは東京湾のサギを抜き出してみると、次の4種のサギが棲息しているようである。

ゴイサギ:カラス大で緑味のある黒い上面、赤い目が特徴

ダイサギ:大きな白いサギで、繁殖期は黒、それ以外は黄色いくちばしで、首が長い

コサギ:黒いくちばしが冬でも黒く、足の指が黄色

アオサギ:背が灰色をした、大きなサギ

 そして、画像の白い個体はコサギダイサギというのが結論。これで何がわかったかとなれば、単に白い色の水鳥の名前がわかったというだけ。「コサギ」、「ダイサギ」が何を指すかがわかっただけで、「コサギ」、「ダイサギ」という鳥、つまり、コサギダイサギの意味がわかったわけではない(この名前の特定が誤りという可能性も少なからずある)。このように言われて、指示(reference)と意味(meaning)の違いを説かれるとつい納得するのだが、私はコサギダイサギの個体の岸辺での振舞いをしっかり眺め、その観察からいくつかの特徴を知った訳だから、「コサギ」、「ダイサギ」の意味の一部も確かに知ったのである、と自分に言い聞かせ、自己満足するのである。

 とはいえ、このような厄介な知るための手続きはサギに限らず、私の周りのあらゆる事物に共通するもので、その中の僅かなものたちを自己流で知ることによって、知識とは何かについて自己流の判断をしているとは何とも空恐ろしいことではないだろうか。知ることに関して、私が大胆なのか、微力なのか、私は知らないのである。