信念(信条、belief)という言葉は日常世界ではしばしば過大に評価されているようです。政治家が「この政策の実現は私の政治的な信念です」と訴えると、何かそれだけでその政治家の評価が高まるような効果をもっています。科学者が自分の実験結果の真偽を問い質され、「それが真なのは私の信条です」と答えたら、「科学は信条でも心情でもない」と反発して、誰もその科学者を信じないのではないでしょうか。
経験主義的な伝統によれば、知識(知ること、knowledge, know)とは「正当化された真なる信念」と定義されてきました。私たちが知識と呼んできたものは、信念に「正当化(justification)」と「真理(truth)」が加わったものと考えられてきたのです。この知識の定義は近年疑われ出したのですが、知識と信念の間に横たわる距離はやはり認められたままで、知識に比べると信念は信用できない、劣ったものと理解されています。知識から真理と正当化の二つの条件が剥奪されると、知識は信念に成り下がるのです。
「信念は個人的な意識内容であり、公共的な知識ではない」という特徴づけが誤っている訳ではないのですが、信念と知識の関係を別の視点からとらえ直してみましょう。「I think that A」が「Aを信じる私の信念、信条」です。Aが真であるかどうかは誰かがそれを信じることと同じではありません。Aの真偽に関係なく、私はAを信じることができます。明白に嘘であっても、その嘘を信じることが私にはできます。このような意味で、信じることは自由なのです。ですから、私たちは思想も宗教も自由に信じることができます。選択の自由が信念にありますから、選ばれた信念や信条に基づいて宣伝や折伏が行われ、徒党を組むことができるのです。
さらに、信念や信条は夢、希望、願望等につながっています。プラン、計画、設計の推進や阻止も真理の場合には原理的にあり得ないことです。科学者でも真理かどうかを確かめるためのプランや計画を練りますし、まだ真理かどうかわからない事柄に賭けることはむしろ日常茶飯事のことです。それが勝負、ゲーム、ギャンブルとなると、真偽がわからない事柄を積極的に利用することになります。ディープインパクトが勝つかどうかわからなくても、勝つと信じて賭けたことを想い出す人が多い筈です。予測できないことを逆手にとって、人生を楽しむことに巧みに転用するのが人間で、「信念」をもつという人間の特徴が同じ人間によって使われてきたのです。
恋や友情も事業の成功や失敗と並んで、あらかじめ結果がわかっているものではありません。わかっていたら人生はつまらないものになってしまいます。一寸先は闇であるからこそ、信念に基づく行動が未来を創り出すことになっているのです。確実な未来がわからないということを巧みに転用して、それが夢の実現だという風に捉えて私たちは生きているのです。
経験科学の知識は暫定的で、反証される可能性をもつというポパー(K. Popper)の考えは、経験的な真偽は常に暫定的だという主張であり、これを認めるなら私たちが住む世界の真偽は名札のようなもので、真偽の不明なものこそ未来を決める要になっていることがわかるでしょう。このように見てくると、最初の政治家の政治的信念は単なるレトリックではなく、闇を切り拓く先頭に立つという意気込みの表明だと信じることもできるのです。
結局、真偽が不明なものでも、それを信念としてもち、さらにそれを夢や希望に変えてしまうという心理的な芸当をいとも簡単にやってのけるのが私たち人間だということに落ち着くのですが、それが何を意味しているかと言えば、人間は恐ろしい程に無鉄砲で怖い生き物だということです。
*人間を無鉄砲で怖い生き物でなくすることができるかどうかを考えるのが「知識の哲学(theory of knowledge)」であり、それが認識論(epistemology)や認知科学(cognitive science)とは違う点ではないかと考えています。