冥と顕の認識論

 少々性急ですが、集合論のモデルから知識とそのモデルとしての世界に話を拡大してみましょう。今回は知識論や認識論と冥顕との関わり合いが主題となります。

 怨霊や鬼を信じることは私たちの自由であるように見えます。でも、それは私たちには運命のような定めでもあります。私たちが世界について知るためにはどうしても必要なものなのです。人は宗教を信じ、信仰をもつのと同じように、悪魔や鬼を信じることができます。私たちが何を認識するかに思いを馳せるなら、いつも実在するものだけを律儀に信じ、知るだけでなく、とてつもない奇妙なものを信じ、それによって未知のものを知ることがしばしば起こります。「正しく知る」ことが退屈だと感じる人は「面白く知る」、「大胆に知る」ことを目論むのではないでしょうか。地べたを這いつくばるような知り方より、天空から鳥瞰することの方により魅力を感じる人が必ずやいる筈です。このように、知るとは自由であるとともに、知るとは幾つかのものを仮定することによって初めて可能になるものでもあるのです。

 「信念」や「存在」という単語自体は大した意味を持っておらず、それゆえ存在論も認識論も何か形式ばかりが目立つのです。冥の世界が空想や幻想によって生み出されるとすれば、顕の世界はそれとは対照的に、疑い得ない実在だけから成り立っていると思われています。ですから、信念、信仰が冥の世界で生まれても、顕の世界の実在は何ら影響を受けないように見えます。しかし、それは全くの嘘で、冥の世界で生まれたものは顕の世界の実在さえ生み出す力を持っているのです。それが一人ではなく、多くの人の信念であれば、それによって顕の世界は変貌することになります。つまり、どのような仮説設定を承認するかに応じて、顕の世界は豹変するのです。

 正しく知るための哲学が認識論だとすれば、冥と顕の概念との組み合わせによって、存在論を常に意識しながら、その束縛から認識論を自由にすることができます。認識論は人が信じることによってものが存在することになり、物の存在が新たに信じることを生み出すといった、両者の緊密な関わり合い、因果的な相互作用を明らかにしてくれることになります。

 「知ること」が冥の世界によって支配され、科学の世界でも知ることが文脈依存的であることが露呈します。客観的で独立的な科学的知識も実は冥の世界に大きく依存し、相対的な真理に過ぎないことが明らかになります。存在論には仮説やそれによる真偽の変化はなく、その世界はあくまで平坦です。私たちの心の動きや喘ぎは無視されるしかなく、知ることには無関心ということになります。私たちが理論を通じて世界を知ろうとすれば、理論を使わなければなりません。理論を使うには理論を私たちが使う文脈に置かなければなりません。どの文脈であれ、仮説を置き、何かを肯定し、別の何かを否定する心的な働きが不可欠となります。仮説を置く心の働きは世界を冥と顕の世界として捉えることを意味しています。

 一元論や一神教が描き出す世界は単純明快で、きっぱりしています。それに対して、多元論や多神教は曖昧模糊として複雑であるのが常で、心身の一元論や二元論もこれによく似ています。善悪、聖俗、真偽といった二項の対立で世界を見ること自体、単純化されていて、見えないもの、わからないもの、未知のものをすべて二者択一でまとめてしまおうとします。

 冥の世界とは仮説の世界であり、それは可能性に溢れた世界です。一方、顕の世界は観察やデータに満ちた世界です。それは見える世界、行為の世界です。思想や理論は見える世界を見えないものを使って説明します、闇がなければ、光がないかのように。