何が不確定なのか:画像を手掛かりに

 「確定した点が力学法則に従って運動し、それを観測する人とは独立した別の事柄である」というのが物理世界についての私たちの古典的な常識です。それを確定性原理の成り立つ決定論的な実在論の世界と表現しました。では、不確定性原理の成り立つ非決定論的世界はどのような世界なのでしょうか。

 確定していない身近の例となれば、確率・統計的な現象ということになり、それは誰も「頻度」として理解できるのですが、誰もが戸惑うのはシュレーディンガーの猫、波束の収縮、多世界解釈といった単語が登場し、途端に常識的でない議論がスタートするミクロな量子世界の現象です。例えば、シュレーディンガーの猫が生きている世界と死んでいる世界が重ね合わされていて、私たちが猫を観測することによって生死のいずれか一つに波束が収縮するとか、それは重ね合わされていた世界が観測によっていずれかの世界に分岐する、といった具合です。つまり、私たちが世界について何か知ろうとすれば、知りたい事柄に応じて世界は分岐され、その一つが実現することになると言うのです。これは、観測し、知る私たちとは独立に古典的世界が実在すると言うのとはまるで違って、観測によって世界が変わることを意味しています。となれば、世界の真の姿は私たちとは独立したものではなく、観測や実証による知識によって左右されるものになり、実在は知識によって変わることになります。

 これまで使われてきた語彙を適用すれば、波束が収縮することによって実現される事態は見える顕界に、収縮する前の重ね合わされたままの事態は冥界に対応しているようにも見えます。「観測する、見る」ことが事態を変更しないなら、見たものが実在するものであると看做すことができます。ところが、見たもの以外のものがあり、それは古典的には見えないもので、重ね合わされているとなると、私たちが見ることによって変わってしまうことになります。こんな奇妙な状況を添付の二枚の画像で確かめてみて下さい。

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 画像はフェイクではなく、それを見る視覚は正確だとしてみましょう。二枚の異なる画像にはクリスマスローズが写っています。以後の視覚像の話は、画像そのものを指す、画像の内容を指す、そのいずれでも構いません。

 古典的世界では二枚の異なる画像があり、それは私たちが見る前、見た後で変わることはありません。ですから、誰であれ、画像を見れば、皆同じ画像を見ていることになります。これが古典力的な世界で、単純明快そのものです。画像の内容についても話は同じで、画像のクリスマスローズ自体も見る直前と見た直後で変わることはありません。兎に角、見ている私たちとは無関係で、二枚の画像、あるいはその内容は実在しているのです。退屈ですが、安定して信頼できる画像なのです。

 ところが、非古典的世界では私たちが見る前、それら画像は重ね合わされていて一枚になっています。私たちが見ると、二枚の内のいずれかが見え、それを波束の収縮、世界の分岐などと呼んだとしても、兎に角私たちには一枚が見えるのです。それが「顕界」の姿で、私たちには見えない「冥界」では二枚が重ね合わされていて、その重ね合わせを私たちは見ることができないのです。顕界の二種類の画像は、見る人によって一定の比率で違っているのです。画像の内容であるクリスマスローズについても冥界と顕界の姿が違っているのです。

 このようにして、古典的世界と非古典的世界がどのように異なるかが直感的にわかる筈です。「実在する」と「見る」との間に違いがない古典的世界と、大きな差がある非古典的世界とが浮かび上がってきます。こうして、「僅かに異なる二つの画像」という常套の表現は実に意味深で、古典的世界、非古典的世界の想定に応じて、この表現の多様な変化を実感することができます。

 重ね合わせと観察によって確率波束が収縮するというのが量子論の一般的な物語なのですが、観察するだけで猫が死んだり、生き返ったりするという物語は冥顕説と大同小異の説明です。でも、量子論の確率の重ね合わせ原理はあらゆる実験結果から裏づけられ、実証されています。そこで、別の量子論解釈として「多世界理論」が考え出されました。死んだ猫を見ているパターンの観測者にしてみれば箱を開けた途端に猫が死んだ状態に波束が収縮したように思えるのですか、実は確率波束が収縮したわけではなく自分自身が死んだ猫のパターンの世界へ分岐してしまっただけなのです。この解釈によると、世界はあらゆる可能性に応じて多数に分岐していくことになります。素粒子の状態の可能性に応じてどんどん世界が分岐していきます。

 エヴェレットの理論では波動関数のそれぞれの可能性の意味する状態ごとにそれが実現する世界が用意されています。シュレーディンガーの猫の場合で言えば、例えば死んでいる確率が25%、生きている確率が75%とすると、コペンハーゲン解釈では実験装置を開けて猫がどうなっているか調べると、100回の実験のうち25回は死んでおり、75回は生きていると考えます。しかし、エヴェレットは、重ね合わせの実験に応じて死んだ猫の世界と生きている猫の世界が分岐し、25%の実験では死んだ猫の世界に行き、75%の実験では生きた猫の世界に行くと考えました。

*では、マクロな実在論的世界とミクロな反実在論的世界の間の事象はどのように見えて、それについてどう考えたらいいのでしょうか。