『刺青(しせい)』は谷崎潤一郎の小説ですが、そのタイトルが「入れ墨(いれずみ)」と読まれるようになり、今では刺青=入れ墨=いれずみとなっています。英語はタトゥー(tattoo)で、これも今では日本語の単語として普通に使われています。つまり、「いれずみ=刺青=入れ墨=タトゥー」という訳です。
昨夜のボクシングの井岡一翔のタイトルマッチでは、JBCルールの「入れ墨など観客に不快の念を与える風体の者」は試合に出場できないため、井岡はJBC立ち会いのもとファンデーションを施していました。挑戦者のメキシコのロドリゲスにもタトゥーがありましたが、JBCルールの適用は日本ジム所属選手のみのため、井岡のファンデーションの不自然さだけが目立ち、しかも試合の後半にはそれが落ちて入れ墨がはっきり浮かび上がり、ルールは消失状態になっていました。
そんな光景を見ながら、オリンピックとパラリンピックの選手たちを思い起こすと、実に多くの選手が刺青を入れていて、多くの日本人が違和感を持った筈です。スポーツ選手の刺青は21世紀に入り目立つようになり、今ではむしろ当たり前のようになっています。
でも、日本人の古い世代は遠山の金さんや高倉健のやくざ映画での刺青を連想し、タトゥーをファッションと考える若い世代とは随分違っています。これも典型的な世代間のギャップと言えるでしょう。私のような世代は確かに刺青に対して先入見が強く、公平な目で見ることができないのかも知れません。新聞もテレビもまだ沈黙したままですが、いずれ詳しい報告を知りたいのは私だけではない筈です。
学生時代、日本堤近くの銭湯に下宿していて、毎晩遅く銭湯を利用させてもらっていたのですが、土地柄入れ墨を入れた人が多く、客の3分の1は背中に見事な彫り物が入っていました。自分の身体を洗うのを忘れ、見惚れていたのが思い出されます。
さて、そんな私を含めた古い世代がスポーツ選手をはじめとする若人の刺青についてどのように捉えたらいいのか、二つの見方、「入れ墨=落書き」論と「入れ墨=壁画」論、を考えてみましょう。
先のJBCルールは「入れ墨=落書き」という考えに基づいています。入れ墨は悪質な落書きと同じように、それを見る人を不快にするものです。オリ・パラの会場は湾岸地域に集中していましたが、この地域は都心に比べると落書きのできる環境にあり、実際多くの落書きがありました。バンクシーに匹敵する傑作がないのは当然としても、どれもが稚拙なものばかりで、文字通りその落書きを見ることによって、人を不快にするものばかリでした。大半はオリ・パラのために消されたのですが、その対応はJBCルールとほぼ同じです。遠山の金さん、高倉健の刺青は単なる落書きではなく、綺麗で見事と思わせるものですが、今のスポーツ選手の刺青にも似たような印象を持つ人が多い筈です。それでも、彫り物は落書きに過ぎず、すべきものではないというのが古い世代の見方です。
次は「入れ墨=壁画」という考えです。システナ礼拝堂にはミケランジェロやボッティチェッリの壁画が溢れています。他の教会や宮殿も同じで、壁には壁画というのが通り相場となってきました。日本人の美学では白壁には何も描かないことになっていますが、ヨーロッパでは空白を埋めるべく、壁画を描き尽くしたのです。それが内側の壁面だけでなく、外側の壁面にも描いたのがメキシコの壁画です。壁面に画を求める文化を受け入れることは、無垢の肌に入れ墨を入れることを許容することになります。とはいえ、気に入らない、あるいは気に入らなくなった絵は取り換える、描き変えることができますが、入れ墨は無理やり消すことしかできません。つまり、一度入れたら、描き変えることができない壁画なのです。