「ほぼライブ」、あるいは「ほぼ同時」

 ライブ(Live)という表示をテレビ画面でよく見る。和製英語で、生の中継、放送を指している。特に、スポーツ番組では多い。茶の間にいながら現場の生の試合を観戦できるという訳で、テレビ局はライブにこだわるようだ。かつては(大相撲に代表される)「中継」という言葉がテレビを独占していたが、むしろ「実況」の方が「ライブ」に近いのだろう。

 都内のライブ画像を都内で観る場合、稚内の画像を鹿児島で観る場合、アメリカの画像を日本で観る場合、火星の画像を地球で観る場合等々を考える時、ライブは同じ意味ではなさそうである。では、(言葉遊びの「ほぼ」とは違って)「ほぼライブ」という表現はどのような意味で有意味なのだろうか。物理学の話に入る前に、カントならライブをどのように捉え、解釈するだろうか。常識的なカント解釈によれば、「今」は誰にも同じであり、それゆえ一つだから、ライブの画面の今は視聴者の今と同じである、ということになるらしい。だが、この標準的な解答はカントの認識論のどこからも実は出てこない。

 古典力学での時間はすべての慣性系に一様に適用され、それゆえ、絶対時間である。ある慣性系のすべての点は同一の同調した時間測度を指定できる。時点0の選択と単位時間を決めると、異なる慣性系の時計は互いに同調させることができる。したがって、古典力学の絶対時間の仮定によって、特定の慣性系から独立に普遍的な同時性について語ることができる。だから、すべての観測者に対して同じ仕方で、特定の時点(=現在)によって過去と未来を分離することができる。絶対時間の仮定は数学的にはガリレオ変換t = t’によって表現できる(ガリレオ変換はニュートンの時空より一般的である。というのも、絶対に静止した系が仮定されていないからである)。このガリレオ変換はカントの認識論にはなく、それゆえ、上記のようにライブの「今」がどのような今かきちんと語れないのである。

 1898年ポアンカレは時間について重要な二つの問いをもった。「今日の1秒は明日の1秒に等しいか」と問うことは果たして意味があるのか。また、「空間的に離れて起こる二つの出来事が同時に起こる」と言うことは意味をもっているか。ポアンカレ以前にこれら問いについて明確に考えた人はいない。最初の問いは未だに満足できる解答はないが、二番目の問いに数年後に答えたのがアインシュタインだった。 

 1902年ポアンカレは別の論文で、未来を予測するのにどのような情報が必要か尋ねた。この問いで彼の念頭にあったのは、ニュートンの法則は粒子すべての位置と運動量が知られていれば未来は完全に決定されているというラプラスの考えだった。ニュートンは絶対空間と絶対時間を信じていたので、粒子の位置と運動量はこの絶対的な座標系に関して与えられた。だが、ポアンカレは相対論的に考え、与えられるものが相対的な量でしかないなら、どんな情報が必要か尋ねた。ポアンカレアインシュタインより先に相対性について考えていたが、それを先に明らかにしたのはアインシュタインだった。

 同時性が相対的であることから、「ライブ」は相対的なものということになり、それが「ほぼライブ」、「ほぼ同時」の言葉遊びではない意味ということになる。