雑木は「ぞうき」であって、「ざつぼく」ではないと思うのだが、私が小学校に入った頃から(昭和30年代)林野庁が造林の拡大方針を打ち出し、それまであった雑木の自然林を伐採し、スギやヒノキなどの役に立つ「有用樹種」を植林し、花粉症など誰も考えもしないで、一目散に人工林に置き換えていった。土地改良に伴う「圃場」について既に似たようなことを述べたが、ここでもお役所言葉が一つ作られたのである。「利用価値が無い」という印象を人々に与える目的で、雑木を「ぞうき」ではなく「ざつぼく」と読むことにしたのである。霞が関のまやかし文学の一例である。この差別用語の導入によって、植林行政を推進しようとしたのである。雑煮を「ざつな煮物」と呼んで差別するような言葉遣いで、何とも後味の悪い用語である。そのせいか、私の周りの里山は杉林だらけになり、画一化された姿をいまでも憶えている。目の前の山林は山の自然風景ではなく、人工的なつくられた姿に変わっていた。
人の手によって植林されたヒノキやスギは建築材料としての利用機会や利用価値が高い。このような針葉樹を中心とした樹木に対して、経済的価値の低い広葉樹を主とした雑多な樹木が雑木ということになっている。雑木の林が雑木林で、最近はその雑木の庭、雑木林をつくり、その風景を楽しむことが増えてきた。雑木は里山から街中に進出し、街の風景をつくり出す重要な役割を演じているのである。そんな雑木が画像のクスノキ、ツツジ、エゴノキ等である。私が住む有明にはクスノキやエゴノキがあちこちに植えられている。それらの花が咲き出している。特に、エゴノキは日本全土に分布する落葉樹で、5月から6月にかけて小枝の先に短い総状花序を出し、釣り鐘状の白い花をたくさんつける。エゴノキは古くから親しまれてきた万葉植物で、和名は果皮が有毒でえぐみがあることに由来する。ツツジもその新緑が眩しい。
雑木のもつ個性は千差万別で、その組み合わせは絶妙な景色を演出してくれる。人がつくるものは直線的、画一的になりがちだが、四角いビルの合間に雑木の形容し難い姿恰好があることによって、街の風景が生まれてくる。ビルと似たように直立するスギやヒノキより枝を不規則に出すエゴノキやサルスベリの方が直線的なビルにマッチし、いつの間にか風景の主役の一つになっている。
*画像は街中で代表的な雑木(クスノキ、ツツジ、エゴノキ)