過去や未来、記憶や夢

 40数年ぶりの同窓会に出席することを想像してほしい。その日が近づくにつれ、あなたは若い頃の思い出に耽り始める。蘇り、溢れ出るかつての記憶の洪水の中であなたはプルーストの『失われた時を求めて』と似たような経験をすることになるかも知れない。記憶された過去が現在のあなたの意識の中に蘇り、アウグスティヌスが過去は記憶として現に存在すると解釈したことを思い出し、正にそれが実現されていると同感するかも知れない。様々な記憶の断片が頭に浮かび、巡り、過る。そして、同窓会の当日になり、あなたは遂に会場に到着する。ここまでがあなたの意識の中の過去、つまり記憶としての過去である。
 次は同窓会に出席してからの話。かつての友だちと実際に再会し、アルバムや文集等の記録を見ながら、昔の学校生活について語り合う段階である。思い出話に花が咲くが、ここでは客観的な歴史が話され、共有する記憶が話題となり、あなたが一人で思い出していた幾つかのエピソードが確認され、あるいは修正を受けることになる。
 さて、同窓会の前後では明らかに異なる二つの過去が登場している。あなたの「記憶の中の過去」と「客観的に共有されている過去」の二つである。アウグスティヌスの記憶の中の過去と客観的な歴史的過去は、一方が意識の中の主観的な過去、他方が意識の外の客観的な過去であるから、当然二つは異なると言われ、それが当たり前のように思われてきた。そうならば、同窓会に出席するあなたは出席前と出席後で異なる過去を経験するということになるのだろうか。そんなことはなく、あなたは自らの記憶の過去と旧友と確認し合った過去が同じものであることを信じて疑わないのではないだろうか。客観的な過去も主観的な過去も実は同じものなのである。客観的とか主観的とかいう表現に惑わされてはならない。それは哲学者の常套的なレトリックで、哲学者自身がそのレトリックに踊らされてきたに過ぎない。同窓会に出席することによってあなたの記憶は客観的な記録や資料によって修正、変更されることがあるとしても、それによってあなたが過去の記憶そのものを否定するなどということはないのである。
 では、その過去と未来のどちらが大切なのだろうか。「3枚の新聞紙を重ねて並べ、畳1畳ほどのスペースをつくる」ように、過去、現在、未来の3枚を重ね合わせ、歴史をつくることができるのだろうか。歴史とは大げさだが、周りにあるものはそれぞれ何年、何か月、何日とあり続け、過去をもっている。近い将来できあがる建築中の道路や建物も過去をもち、現象変化を代表する天変地異、栄枯盛衰、生死等々は歴史の重要な構成要素になっている。
 文法上の時制である「過去、現在、未来」がオーバーラップしては困る。「今は晴れていたが、晴れるだろう」と言うことはできない。だが、実際の過去と未来が重なり合うことは珍しくない。何年も中断した橋梁工事中の橋梁は過去のものだが、そこから完成予定の橋梁を想像でき、その橋梁は過去と未来が重なり合ったものである。これは生物の成長を考えても同じ。生物発生原則によれば、過去が未来に向かって繰り返すのが成長である。実証的な経験科学で未来と過去が対称的な場合は、過去の特定は未来の予測と基本的に変わらず、探求の方法に大きな違いはない。
 遺跡、記念碑、肖像画、記念写真、古文書等々、過去に焦点を当てているものは、記憶の確認という役割を担い、歴史の事実を記録するだけでなく、「歴史を忘れるな」という教訓の役割ももっている。これらは過去の情報や知識を未来に向けて保存するものである。さらに、自然史博物館、民族歴史資料館等も過去の遺産を記録、展示することを目的にしており、過去が主人公。
 私たちは自らの人生を考える際に、過去と未来の何れを主にして考えるだろうか。私たちは「私の博物館」と「私の夢」の何れを大切と思うのか。これが不思議なことに年齢に応じて異なる答えが戻ってくるのである。「私の夢」を大切にする若者は、未来の自分の活躍を夢見る。博物館重視の大人は過去の作品にこだわる。だが、いずれの場合も過去と未来が複雑に重なり合ったものであることに違いはないのである。