私の「ふるさと」に登場する二つのものとなれば、照光寺と加茂神社です。照光寺は家からすぐのところにある寺で、その境内は近所の子供たちの遊び場になっていました。北国街道の坂を上ったところにある加茂さんは時々行く程度でしたが、高くて太い杉の木に囲まれていて、境内の空気は子供の心を緊張させるものでした。子供の私には照光寺も加茂さんもどのような歴史、由来をもつのかまるで知りませんでした。私だけでなく、近所の子供たちはみな照光寺も加茂さんもよく知っていたのですが、その知り方は大人の知り方、知識とは違っていて、正に子供の生活世界での照光寺、加茂さんでした。
子供たちが知っていた照光寺や加茂さんは私がこれまで述べてきた「刷り込まれた学習」による知識で、生活世界で必要な視覚像を基本とする感覚的な知識です。大人が言葉を通じて学んだ知識ではなく、名前以外は自らの経験を通じて知ったものが子供たちの知識です。「鐘楼」、「本堂」、「浄土真宗」、「本殿」、「絵馬」などの語彙やその意味を知らなくても、遊び場として必要なものは誰もが知っていて、映像のような直感的知識として完全に通用していました。
「親を知る」というより、「親を知っている」、「ふるさとを知る」より「ふるさとを知っている」と言う方が適切なのが親やふるさとについての私たちの知り様です。それと同じように子供たちは照光寺や加茂さんを知っていたのです。「偉人を知る」は「偉人を知っている」とほぼ同じなのですが、親やふるさと、照光寺や加茂さんの場合は違います。子供は遊び場を知っているのですが、どうやって知ったかなど一向に気にしないのです。まさに直感的、本能的に刷り込まれたかのように知っているのです。
ここでちょっと飛躍してみます。「自分を知っている」と「ふるさとを知っている」を比べてみて下さい。それらは相当によく似ているのです。「地球を知る」ことと「自分を知っている」ことは確かに違います。でも、その中間にあって自分を知っているのに似ているのがふるさとを知っていることです。誤解を恐れずに言えば、子供の私が自分を知っていたように照光寺や加茂さんを知っていたのです。誰もが自分を知っていると思っていますが、「自分自身を知る」と表現されると、妙に哲学的に思えて、つい構えてしまうのです。
それがふるさとについての知識のあり様で、自分についての記憶の一部としてのふるさとなのです。「私のふるさと」、「あなたのふるさと」、「あなたと私のふるさと」と所有名詞で表現されるのが「ふるさとを知っている」の特徴です。それは「私の町」、「私の妙高」と言う場合とよく似た使い方なのです。
「ふるさとを知る」には学習し、体系的に知識を整理しなければなりませんが、「自分の知っているふるさと」は自分の過去の記憶です。これら二つがどのようにうまく結び合わされ、統合されるかがふるさとの未来を考える上でとても重要だと考えるのは私だけではない筈です。二つが上手く統合されれば、それを子供たちに刷り込むという私のたくらみに寄与することになります。