変化の表現形式(8)

6反証可能性
帰納法の問題に対するポパーの解決]
 これまで考えてきた帰納法の問題に対する解決はヒュームの推論の前提(2)に関するもので、帰納的推論が正当化できることを示そうとしていた。ポパーは全く異なる仕方を考えた。彼はヒュームと同様に帰納的推論は正当化できないと考えるが、科学者が帰納法を実際に使うことはないと主張した。つまり、帰納的方法は科学的な方法でないと考えた。ヒュームは科学者だけでなく、私たちすべてがいつも過去に成立していた規則性を観察して未来の規則性を期待すると主張したが、ポパーはこれも否定する。反復による帰納法の考えは錯覚のようなもので、そのようなものは存在しないと彼は考えた。
 では、ポパーは知識をどのように考えていたのか。彼によれば、人間の知識は推測的(conjectural)である。私たちは観察例から帰納的に理論が真であることを推論できず、できることは可謬的な仮説や理論を推測として「採用」できることだけである。それは理論に帰納的に到達するといった論理的なものではない。
 ポパーの知識についての考えは標準的なものと大きく変わっている。知識とは「正当化された真なる信念」というのが標準的な理解で、「私たちは何を知るか」という問いに答えるためには個人の頭の中を見て、何が信じられているか見つけなければならない。しかし、これが直接に帰納法の問題を引き起こす。一般法則についての知識が適切な法則言明が真であると考えるのに十分な理由があるような事柄であれば、ヒュームの論証にしたがって、私たちには一般法則についての知識はもつことができないことになるからである。
 一方、ポパーは知識についてのこのような心理的な見方を拒否する。彼にとって「私たちは何を知るか」という問いに答えるには、人の頭の中を調べるのではなく、科学的な本や雑誌を調べなければならない。そこにこそ現在の私たちの科学的知識があるからである。この見方では帰納法の問題は生じない。
 宇宙で何が起こっているかを理解し、説明や予測ができるために私たちは何をしなければならないのか。答えは簡単で、真なる理論を見出すことである。科学の目的が真なる理論を見出すことであるなら、そのための最善の方法は何か。
 普遍的な一般化(「すべてのFはGである」)は完全には検証できない。だが、確かに反証はできる。この自明な論理的事実がポパーの哲学の基礎となっている。十分に確証された理論は真である必要はない。だが、明らかに偽の理論は取り除くことができる。だから、推測として理論を採用し、偽の理論を取り除くことによって真なる理論を残すことができる。これが反証主義である。
 ポパーはヒュームと同じように帰納法は論理的に妥当ではないと考えたが、科学は帰納法を使わないゆえに、帰納法は科学にとって問題ではないと主張した。ポパーの方法論によれば、科学は大胆に推測をし、それを厳格に反駁することである。どんな理論も経験的なデータだけから完全には験証できないが、反証はできる。
 次の帰納的推論をポパーの反駁と比べてみよう。

(1) Aは白鳥で、Aは白い
(2) Bは白鳥で、Bは白い

(n) nは白鳥で、nは白い
それゆえ、すべての白鳥は白い(これは論理的に妥当ではない。)

ポパーの反駁)
(1) すべての白鳥は白い (推測)
(2) Aは白鳥で、Aは黒い (反駁)
それゆえ、(1)は偽である(これは論理的に妥当な結論である。)

仮説が反証可能であることが科学をそうでないものから区別する。科学は大胆な仮説から出発し、科学者はそれらから演繹を行ない、実験を通じて演繹結果をテストする。実験と理論が衝突すれば、修正されなければならないのは仮説である。実験と理論が合致すれば、理論は確証されている(corroborated)。確証は理論が真や真に近いことを示さない。それが示すのは理論の過去の振舞いだけである。
 次の仮説からなる理論を考えよう。水は摂氏100度で沸騰する。高山でこの理論をテストし、水が100度以下で沸騰することがわかった。だから、元の理論を修正しなければならない。そこで、仮説を、水は海抜0mでは100度で沸騰する、と変えたとしよう。ポパーによればこれは悪しき修正である。反証後、なぜ反証されたかを説明する理論が模索されるべきである。以前の仮説より一層大胆で、より反証しやすい理論を求めるべきである。水は海抜0mでは100度で沸騰するという仮説は新しいテスト可能な結果を生まず、ポパーはこれを免疫化の戦略と呼んでいる。
 ポパー反証可能性という方法は妥当でない推論に頼っていない。彼の説明によって実験が意味をもつ。実験は理論によってなされるが、反駁のための厳格な追求である。このような利点に対して問題もある。よく指摘されるのはデュエムクワイン問題である。どんな理論もそれだけをテストすることはできない。理論が誤っているなら、多くの異なる仮説を否定できる。例えば、私の温度計が高度に影響を受けるかもしれないし、私の知らない何かが計った温度に影響しているかもしれない。あるいは私の視力が高度に影響を受け誤って目盛を読むかもしれない。ポパーの方法論では科学者が理論のどの部分を修正したらよいのか何も教えてくれない。
 どんな理論も反証される。コペルニクス天文学は観測データに合わなかったが、棄てられず、改良された。反証主義科学史の実情にあっていない。これが二番目の問題である。
[科学と非科学の区別-科学と非科学の境界の基準]
 人間の他の活動、例えば、数学、形而上学占星術から経験科学を分けるものは何か。明らかに経験科学は経験的な証拠、つまり、観察と実験を含んでいる。だが、他の活動も経験的な証拠をもっている。では、証拠が科学において果たす役割で、他の活動ではその役割を果たさないものがあるだろうか。
 帰納主義者によれば証拠は科学では正当化のための役割を演じている。だから、証拠と理論の間の正当化の関係を使って理論が科学的かどうか判定することができる。一方、反証主義者によれば証拠はそのような正当化の役割をもっていない。では、何が理論を科学的にしているのか。それは反証可能性である。次の文を考えてみよう。

(1) すべての独身者は結婚していない
(2) すべての惑星は楕円軌道を動く

(1)は反証可能ではない。結婚した独身者はどこにもおらず、それを反証することはできない。だが、(2)は反証可能である。楕円軌道をとらない惑星を見出すことで反証できる。現在までのところそのような惑星は発見されていないが、原理上は可能である。したがって、ポパーの主張は次のようにまとめられる。

理論は科学的である iff 理論は経験的な証拠によって反証可能である

(方法としての境界付け)
 理論が科学的であるとは経験的な証拠によって反証可能であることであるという見解は正しいだろうか。例えば、(2)は科学的に見える。だが、楕円軌道をとらない惑星を観測して、(2)を信じる者がそれは惑星ではないと主張したらどうだろうか。それは惑星の定義に合致していないと言ったらどうだろうか。これは(2)を反証不可能にしないだろうか。だから、どのような意味で(2)は反証可能なのだろうか。
 ポパーの解答によれば、境界付けの基準は論理的ではなく、方法論的である。理論の言明だけからそれが科学的かどうかを判定できない。理論が科学的態度をもったものかどうか判定されなければならない。理論の信奉者が反証されたことを特定の状況の中で受け入れるかどうか判定しなければならない。
 だから、ポパーマルクス主義アドラーの心理学、フロイト精神分析を非科学的と見なすのは、それら理論の支持者がどんな可能な観察もそれらの拒絶ではないと考えるからである。例えば、人間行動のどんな一部もフロイト的な説明が与えられるなら、精神分析は反証できないことになる。それが誤っていることを示す観察は一つもないことになる。
 ポパーの境界付け基準は科学と非科学の間に正しく線を引くだろうか。例えば、数学、心理学、経済学等を科学的とするだろうか。そのような理論は科学的と見なされるべきだろうか。より優れた境界付けの基準は考えられないのだろうか。

7科学の方法に関するクーン(Thomas Kuhn, 1962-1996)の説明
 ポパーの科学方法論は科学が真理を目指すことから始まった。そして、推測と反駁がこの目的を達成する最善の方法だった。科学者は最大の努力を払って彼らの理論を反証しようとする。一度反証されると、誤りであるゆえにその理論は放棄されなければならない。より良い理論とは、

(1) 古い理論が誤った予測をすべて正しく予測する
(2) より豊富な経験的内容をもち、世界についてより多くの主張をするので、古い理論より反証しやすくなる

ということになる。
 例えば、ニュートン力学から特殊相対論への移行。ニュートン力学はテスト(Michelson-Morleyの実験)にかけられ、それに失敗した。そのため特殊相対論に置き換えられ、特殊相対論はその実験結果を正しく予測できた。
 ポパーは科学がその仕事を正しく遂行していると考えている。だから、彼は科学について次のように考える。

(1) 科学は反証主義的な方法したがって遂行されるべきである。
(2) そして、科学は実際にそのように実行されている。

[科学革命の構造]
 クーンは1962年に『科学革命の構造』を出版したが、それは科学の進展に関する歴史的な説明である。その中心的な主張は歴史的事柄としての科学の営みが推測と反駁の方法にしたがっていないということである。科学史は理論を反証する厳格な試みのパターンを示していない。クーンの主張は科学の発展は別のパターンをもっているというものだった。彼が科学史に見出したパターンは次のようなサイクルである。

…→ 通常科学 → 危機 → 革命 → 通常科学 →…

このサイクルはどのような特徴をもつのか。それを明らかにするためのクーンの説明はどのようなもので、その哲学的な問題は何かを考えてみよう。
1. 通常科学
 通常科学は科学的研究の通常の状態である。それはパラダイム(paradigm)にしたがって行われる、習慣的な活動である。パラダイムはその領域のすべての研究者がもたねばならない理論や理論の集まりであり、どのように研究が遂行されるべきかという指針や教示を含んでいる。
 パラダイムの存在は通常科学の研究者に研究の基礎と意味を与える。それは以下のものを供給する。

(1) 信念と方法論的基準を与える。
(2) 新しいパラダイムはすべての問題を解くわけではない。主要な問題の存在が研究の方向を与える。
(3) 関心領域は狭いが、深い研究を特定領域について遂行させる。
(4) (3)の研究のために技術の増大が進められる。
(5) 研究における共通の価値観を生み出す。

通常科学に携わる科学者はパラダイムそのものを問題にしない。実験の失敗はパラダイムの誤りではなく、実験者の失敗とされる。多くの通常科学はパズル解きに似ている。
2、危機
 パズル解きだけではうまくいかなくなる時がくる。通常科学者がより洗練された、より正確な方法を採用し、古い理論ではカバーできない新しい領域に入ると、より多くの説明できないものが出てきて、僅かな修正だけでは処理できなくなり、パラダイムの解体によってしか解決できなくなる。不合理なものが自覚されて職業的な不安が大きくなる。そして、ついに危機が訪れる。パラダイムは定義が曖昧になり、通常科学は危ういものとなる。
3.危機への対応
 危機が訪れてもパラダイムがすぐに放棄されるわけではない。それに変わる新しいパラダイムが現われない限り、危機に陥ったパラダイムは放棄されない。科学はパラダイムなしには遂行できないからである。危機に対しては三つの結果が考えられる。

(1) 期待に反して、解決が見出され、通常科学は続行される。
(2) 問題は全く新しい方法でも解決できず、後世に託される。
(3) 新しいパラダイムが生まれる。

4.革命
 新しい理論は新しい世界観を具現しており、新しい世代によって押し進められる場合が多い。古いパラダイムから新しいパラダイムへの変化はゲシュタルト転換に似ている。科学者は彼の古い理論が描く世界を全く新しい仕方で見ることを学ばなければならない。
新しい理論への転換は論理や事実の考察によってではなく、問題を解く能力によって指図される。新しい理論をもとに新しいパラダイムがと確立され、新しい通常科学が誕生する。
[通約不可能性(Incommensurability)]
 一つの科学理論から次の理論への発展についての伝統的な哲学的見解によれば、科学は永遠で、客観的な実在の真なる記述を与えることを目的とし、新しい理論は古い理論の誤りを正し、実在の本性を正しく記述する。だから、科学の発展は理論から独立した実在についてより正しいことを記述することにある。
 クーンの中心的な哲学的主張は伝統的な科学哲学が考えた仕方によっては古いパラダイムと新しいパラダイムを比較することができないということである。理論から独立した客観的世界についての事実を集め、いずれの理論がより正しくそれら事実を記述するかを調べることはできない。というのも、それら事実を述べる言語は競合する理論に関して中立ではないからである。異なるパラダイムの支持者は異なる言語共同体のメンバーのようなものである。同じ言葉でも異なる意味をもっている。例えば、ニュートン物理学と相対論の関係についての標準的な説明は前者が後者に包摂され、後者がより一般的だというものである。だが、クーンはこの関係を否定する。二つの理論で使われる概念は異なる意味をもっている。(例えば、時間や空間の概念)それゆえ、二つの理論を単純に比較することはできない。二つの理論は通約不可能である。