生命の変化(6)

小中生ではなく、大人のための哲学(3

進化の結果

 なぜ有機体が見事に適応しているのかを説明するように求められたら、ランダムな自然の過程の結果だという仮説より、予めデザインされたものだというデザイン仮説の方がはるかにもっともらしく思われます。そこで、デザイン仮説と自然選択による進化の仮説を比較してみましょう。

 ペイリーは適応の完全さを強調しました。彼は生き物のすべての細部が最善だと信じていました。これはペイリーに特別なことではなく、彼より一世紀ほど前の哲学者ライプニッツも、すべての可能世界の中で最善の世界が神によって実現される世界だと論じました。でも、ダーウィンは適応が完全であるという考えを否定します。進化論によれば、適応は十分うまくなされていても、完全ではありません。自然選択が予測するのは、集団に実際に実現されている形質のうちで適応度のもっとも高いものが一般的になるということです。この結果は考えられる限りの中で最善ではなく、実際に利用可能な変異の中の最善であり、相対的です。

 さまざまな種の有機体が同じ機能を実行するために異なる構造をもっているという事実を考えてみましょう。鳥、コウモリ、昆虫の翼はすべて飛ぶためにあります。しかし、その「翼」を注意深く見ると、飛ぶこととは無関係なところで多くの違いが見出されます。もし翼が知的な設計者によってデザインされたのであれば、これらの無関係な違いを説明することは困難でしょう。一方、グループのそれぞれが翼のない先祖から異なる経緯で由来したという仮説を受け入れるなら、これらの違いは簡単に説明できます。

(デザインによる論証は非科学的か)

 デザイン論証は生命形態にデザインが存在することを認めることから出発します。次の文を考えてみましょう。

 

(O) 眼は性質P1Pnをもつ。

(H1) 眼はデザイナーによってつくられた。

(H2) 眼は偶然的過程によってつくられた。

(H3) 眼は自然選択によってつくられた。

 

デザイン論証はアナロジー帰納法と考えられることがありましたが、尤度原理(likelihood principle)を使って的確に表現できます。(H1)、(H2)、(H3)のいずれの仮説が正しいかに関して尤度原理を使うために、それを条件付確率を使って表現しておきましょう。

 

観察Oは仮説H2より仮説H1を支持する ⇔ P(O|H1)>P(O|H2)

 

あるものが一様な偶然的過程の結果であるとは、多くの同程度に起こりやすい(equiprobable)ものの一つということです。「ランダム」はこのような一様な偶然的過程を表現するのに使われてきました。既述のように自然選択による進化の過程は一様な偶然過程ではありません。自然選択の働く過程は、偶然による個体の新しい形質の出現、その形質の選択という2段階になっています。それらは等確率の過程ではなく、したがって、偶然的な過程ではありません。それゆえ、一様な偶然過程の否定はデザインの存在だけではなく、自然選択の過程の存在でもあります。進化論では選択効果が対象として研究されます。自然選択、浮動はそれぞれ異なる意味で選択効果です。でも、これらは観測による選択効果ではなく、自然の中で起こる選択効果です。

 適応のデザイン論証は、適応がデザインされているという観察から始まります。デザイナーがいなければ、眼はあり得なかった、と考えます。また、偶然よりは選択があったほうが眼の存在を支持するでしょう。すると、次のような関係が予想できます。

 

P(O|H1) > P(O|H2)

P(O|H1) > P(O|H3)

P(O|H3) > P(O|H2)

 

どのような観察もデザインの存在や偶然を直接に支持しませんが、選択の証拠として採用される観察は既に見たように数多く存在します。したがって、観察結果から考えた場合、H1H2を支持する経験的な結果がないのに対し、H3を支持するものは多数あることになります。これは経験的事実を重視する立場からはH3が採用されなければならないことを示しています。但し、選択以外の進化要因の結果かどうかに関しては別に考えなければなりまん。

反証可能性

 では、科学的な仮説は十分にテストできるのでしょうか。テスト可能性はポパーの見解に訴えることでしばしば展開されてきました。彼は科学的言明の道標として反証可能性を主張しました。ポパー反証可能性の基準は観察言明と呼ばれる言明の特別のクラスを選ぶことができなければなりません。そして言明は、観察言明に特定の仕方で関係している場合に反証可能であると言われます。

 

言明Pは反証可能である ⇔  Pが少なくとも一つの観察言明Oを演繹的に含意する。

 

反証可能な言明は観察できるものについて予測できます。これは、言明Pと観察報告Oの間に演繹的な含意関係が存在することから得られます。

 ポパーの提案の問題は観察言明と他の言明の間の区別が必要である点にあります。では、この区別はどのようになされるのでしょうか。「ニワトリが死んだ」という言明を確認するために、ニワトリとは何で、死とは何かを知っていなければなりません。これはしばしば「観察は理論を背後にもっている(theory laden)」と表現されてきました。人が観察からつくる主張はみな、それを正当化するために既にもっている知識や情報に依存しなければなりません。

 この問題に対してポパーは何が観察言明かは約定の問題だと言います。しかし、この解決の仕方では言明が反証可能かどうか問題になる場合に困ってしまいます。もし誰かが「神はこの宇宙の創造主である」が観察言明であるという約定を採用するなら、有神論は反証可能なものになってしまいます。ポパーの基準が実質的に効力をもつためには、観察言明をそうでないものから区別する、任意でない方法がなければなりません。しかし、現在までそのような基準は誰も見つけていません。

 反証可能性の基準の問題はさらに深まります。まず、ある言明Sが反証可能であるとしてみましょう。すると、Sと他の言明Nの連言も反証可能です。これはポパーの提案には厄介なことです。というのも、彼はそもそも真に科学的な命題Sから非科学的な言明Nを区別するために提案したはずだからです。多分、もしNが科学的に考慮に値しないなら、S&Nも考慮に値しないでしょう。反証可能性の基準はこの当たり前の要請を満たしていません。

 別の問題は、彼の提案が命題のその否定に対する関係について奇妙な含意関係をもっている点です。「すべてのABである」という形の言明を考えましょう。ポパーはこの言明は反証可能であると判定します。BでないAを一つ観察することによってこの言明は反証されると考えたからです。では、一般言明の否定を考えたらどうでしょうか。「Aであり、Bでない対象が存在する」がそのような言明です。この言明は反証可能ではありません。どのような単一のあるいは有限の対象であっても、この存在言明を反証することはできません。したがって、普遍的な言明は反証可能ですが、存在的な言明はそうではないことになります。これは奇妙な結論です。通常、ある言明が科学的なら、その否定も科学的です。したがって、これは反証可能性が科学的であることの基準としては相応しくないことを示唆しています。

 さらに問題があります。科学の大抵の理論的言明は観察によって確かめることができるものについての予測をしないということです。理論は補助的な仮定と結びついたときだけテスト可能な予測をします。理論Tは観察言明Oを演繹的に含意しません。むしろ、Oを含意するのはTと補助的な仮定の連言です。この考えはしばしばデュエムのテーゼと呼ばれてきました。

 最後の問題は科学における確率言明が反証不可能であることになってしまう点です。「コインが公平である」という言明を考えてみましょう。つまり、「裏あるいは表の出る確率が0.5である」という言明です。この言明からコインの観察可能な振舞いについて何が演繹できるでしょうか。10回コインを投げたなら、正確に5回表と裏がそれぞれ出なければならないことが演繹できるでしょうか。答はノーです。コインが公平であるという仮説はあらゆる可能な結果と両立可能です。表が0回から10回までの結果のどれとも両立可能です。ポパーの意味では確率言明は反証することができません。

(目的論の自然化)

 生物学者はさまざまに工夫を施された機能について語ります。心臓の機能は血液を送り出すポンプであるというのもその一例です。これは何を意味しているのでしょうか。心臓は血液を送り出す以外に心音を発したり、胸の一部に場所を占めたりしています。なぜ心臓の機能は音を出したり場所を占めたりではなく、血液を送り出すことなのでしょうか。機能についての主張を理解するために心臓のような工夫がもつ結果について明らかにしてみましょう。

 機能という概念は人工のものに適用した場合には明らかです。ナイフの機能を聞かれても何の問題もないでしょう。ナイフがどのような意図でつくられ、使われるかは明らかだからです。

 では、人間がつくったものでない対象に機能という概念を適用することは何を意味しているのでしょうか。もし有機体が知的なデザインの結果であれば、その心臓の機能はナイフの場合と同じように理解することができます。心臓を与えた神の意図について語ることが心臓の機能について語ることになるでしょう。しかし、もし私たちがこの生命世界について純粋に自然主義的な説明を与えたいと思うなら、どのように機能を考えたらよいのでしょうか。

 アリストテレスの物理学は目的論に満ちていました。彼は星が目的に導かれたシステムであることを信じていました。内的な目的が重いものを地球の中心に向かって引きつけます。重いものは自らの機能をもっています。でも、ニュートン力学は流星が何の機能ももっていないと考えることを可能にしました。それが機能をもっているように振る舞うのは科学法則に従うからです。

 ダーウィンは科学的な唯物論についてはニュートンと同じ考えでしたが、目的論的な考えについては異なっていました。目的論を生物学から追放するよりは、それを自然主義的な枠組の中で理解することができると考えました。つまり、彼は目的や機能を自然選択の結果として説明しようとしました。その結果、進化論は対象に機能を付与するのに人間中心主義を必要としなくなりました。

 ある形質が「適応」であると言うとき、それは現在の有用性に言及していません。それはその歴史に言及しています。哺乳類の心臓が血液を循環させるための適応であると言うのは、哺乳類の先祖が心臓をもつことで適応度を上げたために現在心臓をもっていると言うことです。心臓をもつための選択があったゆえに心臓が選択されたのです。そして、心臓は血液を循環させるゆえに選択されました。心臓は音を出しますが、音を出すための適応ではありません。心臓は音を出すゆえに進化したのではありません。むしろ、音を出すという性質は副産物として進化しました。音を出すことの選択はありましたが、音を出すための選択はありませんでした。より一般的に、次のように適応概念を定義できます。

 

特徴cは集団において仕事tをするための適応である

特徴cをもつための選択が祖先に存在し、それが仕事tを実行することによって祖先の適応度を高めたゆえに、集団のメンバーが現在特徴cをもっている。

 

 それが進化した理由でなくとも、ある仕事tを実行するゆえに有用であるような形質は存在します。ウミガメは産卵後前足で穴を掘り卵を埋めます。この点で前足は有用です。しかし、ウミガメの前足は穴を掘るための適応ではありません。ウミガメには彼らが砂浜に産卵するはるか以前から前足があったからです。

 逆に、適応が今では有用性を失ってしまった場合もあります。ある系統で翼が飛翔に有用であるゆえに進化したとしてみましょう。これは翼が飛ぶための適応であることを意味しています。そこで環境が変化し、飛ぶことがかえって危険であるようになるなら、翼は適応ですが、飛ぶことは有機体の適応度を下げることになります。

 適応と適応的(adaptive)は異なる概念です。ある形質が現在有利さをもっていれば、それは今適応的です。ある形質が過去にあった選択の結果であるゆえに現在存在するなら、その形質は適応です。二つの概念は形質の経歴の異なる段階を述べている。ある形質が現在適応的でなくとも、適応であることは可能です。また、ある形質が現在適応でなくとも、適応的であることが可能です。適応は歴史的概念であり、現在の有用性と同じではありません。

 適応という概念のなかでも区別が必要です。「適応」は過程の名前でもあり得えますし、また所産の名前でもあり得えます。翼の進化は適応の過程を含んでいます。その過程の結果としての翼は所産です。適応の過程に関しては個体発生的な適応と系統発生的な適応を区別しなければなりません。学習できる有機体はその環境に適応することができます。それは自らの行動を変えます。この変化は有機体の一生の間で起こります。進化論で議論される適応の過程はこのような個体発生的なものではなく、系統発生的な適応です。

 ここまでは「機能」という概念についてどう理解すべきか何も言ってきませんでした。これについての哲学者の意見は二つに分かれます。ライト(Larry Wright)のように、今まで適応について述べてきたのと同じように生物学的な機能を扱うのが一つのグループです。ある装置が機能をもっていると言うのは、それが現存する理由について述べることです。人工的なものがある機能をもつと言うとき、私たちはなぜその人工物がつくられ、使われているかを述べています。これが機能の起源論的見解(etiological view of function)です。機能を付与することは起源についての仮説をつくることです。

 別のグループは機能と適応を同じように見ることに反対します。例えば、カミンズ(Robert Cummins)は、ある装置に機能を付与することはその装置がなぜ現存するかについての主張ではないと考えます。ウミガメの前足の機能は穴を掘ることであり、それが前足をもつことの理由でなくとも構いません。カミンズにとっては、前足は有機体の能力に寄与するゆえにその機能をもっています。

 起源論的な見解に反対する一つの理由は、過去の生物学者が進化論など知らずに、それとは無関係にさまざまな器官に機能を巧みに付与してきたことです。17世紀のハーヴェイ(William Harvey, 1578-1657)は心臓の機能は血液を循環させることであると知っていました。ハーヴェイは心臓が何をするかについて主張していたのであり、私たちがなぜ心臓をもつかについて主張していたのではないというのが反対派の考えです。起源論への別の批判は、それが奇妙な結論を導くというものです。肥満ゆえに運動しない人を考えてみましょう。運動をしないゆえに太り過ぎは解消されません。ここで、彼の肥満の機能は運動防止であるというのは奇妙です。これはある形質が現存する理由についての説明が機能についての説明と同じと考えることが誤りであることを示しています。

 他方、カミンズの理論は機能をもつことに寛容過ぎることで批判されています。心臓は重さをもっています。しかし、心臓のもつ重さがその機能であるというのはおかしい。機能と単なる効果の区別がカミンズの理論には欠けている点が問題となります。もし、ある器官を全体として考え、その効果を扱うことになると、その器官のもつすべての効果がその機能と考えられてしまうのです。

 機能という概念が何を意味しているかの哲学的説明の基本的な特徴は、それらが自然主義的であることです。さまざまな説はみなその主張が異なるとはいえ、機能の説明は現在の生物学と両立可能である点で一致しています。目的志向型のシステムが生物学的でない、自然の中の事柄以上のものを含んでいるということを一切要求していません。