哲学の未解決問題(3)

帰納法は何か」という問題はほぼ解決した問題で、それは実は何でもなかったものを問題にしていただけで、確率や統計の問題として捉え直され、帰納法の問題に対してそれなりのある程度満足できる解答がなされてきました。その経緯を垣間見てみましょう。

帰納(推論、過去・未来、Induction)
私たちは自分が直接観察しないことについて実に多くのことを知っています。直接見るには小さ過ぎる、遠くにあり過ぎる、隠れている、昔に起こったことで今は既になくなってしまった、まだ起こっていないので見ることができない、といったさまざまな理由から直接に観察できない場合、私たちはそれらをどのように知るのでしょうか。四角形にはいつでも4つの辺がある、2個のリンゴと3個のミカンの和は今年だけではなく、来年も5である、と容易に信じることができます。四角形についても和についても、そうでない場合を想像することができない、というのが信じる理由です。ヒュームによれば、観念の間の関係と事実の間の関係は次のように異なっており、四角形や和は観念の間の関係を表現したものなのです。

S が観念の間の関係を表現している iff Sの否定が理解できない、あるいは矛盾している

S は事実を表現している iff Sとその否定の両方が理解可能である、あるいは矛盾していない
(iff はif and only ifの省略形)

「私は猫を二匹飼っている」が真であっても、私はその否定を想像し、それが偽だと想定することができます。ですから、それは観念の間の関係ではなく、事実の間の関係を表現しているのです。私たちは知覚することと記憶したものによって観察事実が何かを知ります。では、私たちはどのように観察されない事実について信念や意見をもつのでしょうか。それらもやはり経験から得られます。性質のどんな組み合わせも論理上は可能ですが、どの組み合わせが事実として実現されるかは観察経験に頼らなければわかりません。
さて、観察事実と一般的な言明の関係を経験的なデータと理論の関係と捉え、その関係を帰納法の関係として考えてみましょう。データと理論の具体例と、一般的な図式は次のように表現できます。

これまで火はいつも熱かった。
だから、火はこれからも熱いだろう。

(データ)これまですべてのFはGであった。
(理論)すべてのFは未来もGである。

帰納法の問題はヒュームの問題とも呼ばれますが、 観察されない事実についての意見は経験から帰納法によって導出されると思われがちです。でも、データから理論への推論は演繹的に妥当ではありません。そこで(ヒュームによって)考えられたのが次の原理でした。

自然の一様性原理(UN):FとGについて、F がこれまでGであるなら、Fは以後もGのままである。

この自然の一様性原理によって、データとUNから、理論が導出できます。

(問)(データ)+UN→(理論)を証明しなさい。

UNは大変強い主張で、私の経験の中に登場したパターンは自然において一般的に成立すると述べています。明らかにこれは強過ぎる主張です。でも、この主張を弱め、「FであるものはGであった」というのが法則であるとすると、どのようにそれが成立することを私たちは知るのでしょうか。

過去には、未来は過去に似ていた。
それゆえ、未来にも、未来は過去に似ているだろう。

この結論はUNを仮定に加えなければ妥当にはなりません。でも、仮定に加えると、推論は循環することになります。未来が過去に似ているだろうということを既に知っていない限り、過去の未来が過去の過去に似ているという事実から、未来の未来が未来の過去に似ているだろうということを示すことはできません。

(1)UNは未観察の事実に関わっている。
(2)未観察の事実についての知識は経験から帰納的に導き出されなくてはならない。
(3)だが、UNはどんな帰納的な論証でも暗黙の仮定になっている。
(4)それゆえ、UNに対する循環しない論証はない。(1-3)

これが示しているのは、科学的な探求(つまり、観察されるものから観察されないものについての結論を導き出す試み)それ自体は証明できない仮定に基づき、信念条項として受け取られなければならない、ということです。これは科学的な証拠を占星術と同じ地位に置くことのように思われます。

(データ)水晶球は私の申し出が受け入れられると言っている。
(理論)だから、私の申し出は受け入れられるだろう。

確かに、これは真ではありません。でも、次の仮定を加えれば、真になるでしょう。

(RC)水晶球は信頼できる。つまり、それがXと言えば、Xであることは真である。

確かに、(RC)に対する最善の論証は次のものです。

(データ)水晶球はそれが信頼できると言う。
(理論)水晶球は信頼できる。((RC)と同じ)

なるほど、この論証が妥当になるのは(RC)をさらなる仮定として加えた場合だけで、それは全体の試みを循環的なものにしてしまいます。でも、これらのことは科学的な推論についても同じように真です。水晶球占いは何ら恥ずべきことではなく、科学と同じように知的に尊敬できるものである、ということになります。これは明らかに正しくありません。これにはいくつもの反論があります。代表的な反論を以下に挙げておきましょう。

a) これまでのところ水晶球占いより帰納法の方が成功してきた
b) 帰納法は定義によって合理的である。それは正しい推理によって意味していることの一部になっている。
c) 帰納法は無益で、科学はそれを決して使っていない(Popper)。
d) 帰納法は演繹的に妥当であるとは想定されていない。それは帰納的に妥当であるに過ぎない。
e) 演繹も似ている。演繹が信頼できることを証明するどんな試みも演繹に循環的に頼っている。

ヒューム自身の反応は異なっていて、より根本的です。

f ) 帰納法の信頼性に対して、心を動かす合理的な証拠はない。

帰納法は私たちが選ぶべき戦略ではありません。それは私たちに生れつき埋め込まれたものです。渡り鳥は南に飛んでいくことを自ら正当化する必要はありません。渡り鳥にとってはそうすることが正しいことなのです。私たちは帰納法を正当化する必要などありません。というのも、そうするのが端的に正しいだけなのです。動物はうまく行くことを実行しているだけであり、私たちは正にその動物なのです。

(問)帰納法と確率・統計的な手法は何が違っているのでしょうか。
(問)経験的な理論の正当化はできるのでしょうか。