自己同一性をもたないもの:その知覚と認識

(少々無謀でも、単純この上ない話)
 私たちの視覚は他の感覚より長けている。だから、人は視覚的な動物だと言われてきた。まず強調せねばならないのは、知覚は一朝一夕に可能になるのではなく、生まれて以来長年の学習によって(正常に)見ることができるようになるのである。私たちは視覚の学習訓練の結果、見たものを記憶し、言葉の助けを借りながら、表象し、意識し、想起することができるようになる。そして、その能力が人を人たらしめてきたのである。
 ところで、知覚と思考は共通部分をもちながらも、はっきり違っている。ここで、私が主張したいことは「私たちは自己同一性をもつものしか知覚できないが、表象や思考においては自己同一性をもたないものをイメージし、考え、扱うことができる」ということである。普通なら、自己同一性をもつことは思考レベルで認識され、知覚レベルには登場しないと考えられるのであるが、それとは逆の主張である。
 最初に自己同一性を説明しておく必要がある。同じ形のA箱とB箱があり、そこに双子のような球1と球2を入れたり出したりするとしてみよう。AとB、1と2が知覚レベルでそれぞれ区別できる場合と、区別できない場合が色々想定できる(この想定は知覚レベルではなく思考レベルのものである)。例えば、箱は別々に見分けることができるが、球は見分けがつかない、などと古典統計と量子統計との違いを考える際によく想定される。わかりやすい古典的な場合、箱も球も見分けがつくという想定の下で計算される。どうしてその想定が正しいとされるかと言えば、箱にも球にも名札をつけておけば、簡単に見分けることができるからである。だが、そのように箱も球も自己同一性をもっているのは古典的な場合だけで、量子的な場合は箱や球が自己同一性を失い、異なる統計的なモデルを考えなければならない。球を枚挙できるかどうかは古典的、量子的いずれの場合も変わりないが、自己同一性があるかないかが古典論と量子論を分けている。成程と思わせる説明だが、これがかの朝永振一郎の主張だった。
 さて、知覚の基本的な本性は見えるものが自己同一性をもつということである。全く同じ二つの球を見ても、私たちは左右、上下のような位置関係から二つを区別してみることができる。「同じ球でも区別してみることができる」という事態は考えてみれば不思議な事態で、知覚が視覚と認知のミックスであることを如実に語っている。「同じものでも区別できる」という謂い回しは私たちが見る世界では十分に意味をもって通用している。後ろを向いた際に、球を置き換えられても私たちはそのことがわからない。だが、見続けていれば容易にわかる。テレビカメラの画像でさえ、置き換えの現場は確認できる。これが肝心なことで、知覚は自己同一性という性質をもつものとして対象を知覚(認知)するのである。世界で知覚する際の大前提は学習されたものであり、それは「自己同一性をもつものを私たちは見ている」である。つまり、自己同一性は学習結果なのである。
 表象や意識として球を考える際、見続けられる球ではなく、見終わった球の幾つもの(静止)画像を比較し、それらを使って推論することになる。複数の知覚像は、見続けられた動画像ではなく、断片の集合である。それら画像を横並びにして考える際には自己同一性は消失するのである(むしろ、消失させているのである)。何度も実験し、それを統計処理する場合、類似の状況の反復が想定されている。その際、例えばA箱の球1をB箱の球2と置き換えても、球1と球2が識別できなければ(その結果、自己同一性をもっていなければ)、それは一つの事態であると考えられるが、ずっと見続けることができれば置き換えの証拠のもとに、1も2も自己同一性をもっていて、それは二つの事態だと見分けることができるのである。
 こうして、知覚経験を観察や実験レベルで信用するのであれば、二つの球の配置を見続ける限り、そして、球の置き換えがあるかないかを見ることによって、球の自己同一性を保持した観察が可能なのである。だが、不連続の二枚の異なる知覚像は時間が異なる限り、球の置き換えが行われたかどうかそれぞれの画像を見るだけではわからず、その結果、そこでの安全な経験主義的想定は「球に自己同一性はない」というものになるのである。
 知覚や認識のレベルから見るならば、自己同一性は知覚レベルでは単純に知覚の本性そのもの、つまりは知覚の能力であり、それを情報として取り込んで処理する際に、複数の異なる知覚像を考え、判断する際に自己同一性が失われるような操作ができるのである。認識レベルで自己同一性を失わせることが情報処理に必要なのである。特に、複数の状況を統計的に扱う際には、この没自己同一性が表面に露出してくる。事象や出来事は知覚の断片であり、連続的に知覚し続けたものではない。だから、素粒子に限らず、グラニュー糖の粒子でも自己同一性はもてないのである。
 では、素粒子に名札をつけることはできないのだろうか。もしそれが可能なら、古典物理と量子物理は共に自己同一的な対象から成り立つ世界を扱うことになり、統一理論が可能と言うことになるのだが、そう簡単にはできそうもないことがわかっている。球のように名札をつけて識別できないのが素粒子なのである。物質の基本要素が素粒子なのだから、それは物質の中の物質だと考えたくなるのだが、その物質を見るというレベルで考えるなら、素粒子を直に見続けることができなく、知識を使って断片的にしか見ることができないもの、それが素粒子なのである。見続けることができるなら、素粒子は自己同一性をもつのだが、それは不可能なのである。物質の基本は知覚と認識の双方から捉えられているという点で、量子物理学は主観的(情報処理的)な側面を持っていることが頷けるだろう。