揺らぐ対象、揺らぐ概念

 近視の私に見える風景は曖昧でぼんやりしている。知覚像が揺らぐのも何度も経験済みである。曖昧で、揺らぐ知覚像はわかるのだが、概念や対象はどうだろうか?概念は曖昧で、揺らぐのか?それとも、曖昧で、揺らぐのは対象なのか?あるいは、概念も対象もともに曖昧で、揺らぐのか?

 概念がファジーだと、いつでもどこでも同じ対象を指さないことになり、対象がファジーだと、いつでもどこでもその対象は一定せず、不安定になる。対象については、雲や霧を思い起こせば、近いイメージが得られるだろう。

 さて、「揺らぐ概念と揺らぐ対象は同じことである」という主張は正しいだろうか。概念と対象は異なるから、「揺らぐ」という謂い回しがついても、二つは異なる、と考えるのが常識だろう。だが、形式的には二つのモデル、一つは揺らぐ概念のモデル、他は揺らぐ対象のモデルをつくり、それらが同値であることを証明することは困難ではない。  

 それらとは対照的に、古典的概念と古典的対象を捉え直すことができる。古典的概念は確定していて、揺るがない概念であり、古典的対象は確定した、揺るがない対象である。いずれも私たちが日常的に慣れ親しんでいるものであり、私たちは確定的な古典的世界で生活していることになっている。

 対象としての「点」はどうか?点にサイズがないのだから、確定しているとかしていないとかの基準は対象の形態や姿にはない。概念としての「点」は外延が明確かどうかという問題で、これは有意味である。サイズのある対象は対象として確定的であっても、概念としては曖昧であることがありうる。横の女性が誰かは確定していても、本当にその人が健康かどうかは曖昧な場合がある。一方、素粒子の概念は定まっていても、対象としての素粒子の振舞いは曖昧で不可思議である。

 概念としても、対象としても曖昧で揺らぐことがあり、概念としても対象としても確定している場合はむしろ稀なのである。