固有名詞は確定記述(固有名詞が何を指示するかを決定できる文の集合)によって表現されるような意味をもつのか、それとも端的に対象を指示するだけなのか。このような問題が20世紀の後半に盛んに議論されたことがあった。同じころ、生物種は実在的なのか否かが問題になっていた。それらの問題は言語哲学と生物学の哲学という異なる分野の問題で、あえて一緒に扱われることはほとんどなかった。そろそろそれらの議論の後始末が必要なのだが、そのために具体的な事例を参考に再度考え直してみたくなった。まずはその下準備として、生物種の名前についての二つの具体例を挙げてみたい。
イヌワシ
「イヌワシ」という名前は、安土桃山時代から様々な文献に登場する。天狗のモデルがイヌワシで、和名では「狗鷲」と書かれる。「いぬ」はより下を意味し、より大きい大鷲(オオワシ)の下という意味でイヌワシと呼ばれた。逆に「いぬ」は大きいものを表す言葉であり、大きい鷲という意味でその名前がついた。さらに、鳴き声がイヌのようだからつけられた。このように諸説乱立で、その由来は曖昧で不明。もっともらしいのは、イヌワシ、オオワシ、オジロワシの呼び分けが同時に行われるようになったため「オオワシ」と見分けて「より劣るワシ=イヌワシ」とする説か。これだけでも私たちが住む生活世界が素直でオープンな世界などでは決してなく、思惑が飛び交い、一筋縄ではいかない混乱した世界であることがわかる。
オオワシは古来、その尾羽が矢羽の素材として珍重されてきた。どんな鳥よりも大きく、根本まで真っ白なオオワシの尾羽は非常に貴重で、神事にさえ用いられていた。オジロワシも長く白い尾羽を持つが、個体によっては根本付近に茶色が混ざることがあるようで、イヌワシに至っては全身がオオワシよりも一回り小さく、尾羽の色も黒っぽいため、矢羽としての価値は劣る。今の私たちにはまるで時代錯誤の話で、名前など実につまらない理由によってつけられたのだという証拠でしかない。
オオワシの名前は「大きなワシ」、オジロワシは(オオワシより価値は劣るが)「尾羽が白いワシ」。これに対し、イヌワシは「オオワシとは似て異なる、価値の劣るワシ」というのが最もスタンダードな説と述べた。江戸時代に入ると他にも様々な異名が登場する。「クロワシ」が最も広まった名前だが、これはイヌワシの全身が黒っぽく大きな翼を持つことから「天狗伝説」のモチーフとなったと考えられている。他にも「クマワシ」、「ネコワシ」、「チグリワシ」、「ワキジロ」など、地域によって様々な名前が見られ、これらの多様な名前の中から、明治・大正・昭和を経て「イヌワシ」が標準和名として定められた。だが、標準和名とはいっても公的機関の認証があるわけではなく、単にスタンダードな図鑑や事典などに使用される名前というだけ。だから、今でもイヌワシを「クロワシ」や「チグリワシ」と呼ぶ地域もあり、これらの異名もイヌワシの「準標準和名」とされている。このような経緯が名前に権威を与え、それが正しい名前というような幻想を人々に植えつけることになる。
結局、イヌワシ命名の因果的な経緯は曖昧模糊としていて、何となくオオワシに次ぐワシということはわかっても、「イヌワシ」がどのワシを指すかははっきりしている。「イヌワシ」が何を指すかはわかっているが、命名の理由や由来は不明ということである。
ニセアカシア(学名はRobinia pseudoacacia)
「偽」も「似非」もいい意味ではない。その「ニセ」が接頭語のようについたのがニセアカシア。北米原産のマメ科ハリエンジュ属の落葉高木である。日本には1873年に渡来した。用途は街路樹、公園樹、砂防・土止めに植栽、材は器具用等に用いられる。一般的に使われるニセアカシアは、種小名のpseudoacacia(「pseudo=よく似た、擬似の、acacia=アカシア」)の直訳そのもので、何ともいただけない。「アカシア」というと日本語のように思われがちだが、実は学名のRobinia pseudoacaciaに由来している。Robiniaという属名は、17世紀初頭に米国からこの木を輸入して栽培したフランスの庭師兼植物学者ジャン・ロバン (Jean Robin)の名前にちなんで命名された。彼は1597年にパリ大学の医学部から植物園の設立を依頼され、フランスにアメリカ原産のニセアカシアやアジア原産のムクゲ(Hibiscus syriacus)を栽培した。ロバンの植えたこれらの樹木はパリ植物園で最も古い植物として現在も残っている。
和名で針槐(ハリエンジュ)と呼ばれるニセアカシア。針槐が日本に渡って来たのは明治時代で、その当時アカシアと呼ばれたことから混同が起きた。ちなみにアカシアのハチミツとして販売されているものは、針槐の花の蜜であり、本来のアカシアの蜜ではない。例えば、札幌のアカシア並木、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」など、実はニセアカシアのこと。
では、アカシアはどんな木なのか。ここにも混同があり、アカシアは黄色のフサフサした花を咲かせる木で、ミモザと呼ばれている。ミモザは別の種類なのだが、世間ではアカシアをミモザと呼んでいる。
アカシアは日本へ導入された当初の呼び名で、ハリエンジュは明治19年に松村任三博士が命名した。ギゴウカンは「疑合歓」の意味でネムノキに類似しているため名づけられた。「ゴムノキ」はゴムのとれるアカシアだと間違って宣伝されたためだった。ニセアカシアは命名に関しては災難続きだったことがわかる。
「イヌモドキ」は犬に似た生き物だが、犬ではないのでイヌモドキなのか、「擬き」が偽物(イヌ)なのだから、擬きではなく本物なのか、こんな珍問答を想像したくなるほどに、この謂い回し自体何とも怪しげな表現としか言いようがない。種を明かせば、「イヌ」も「モドキ」もほぼ同じ意味。いずれも本物の代用品という意味で「イヌ」や「モドキ」が使われてきた。だから、「イヌモドキ」は偽物のダブルで本物だと言いたくなるのである。
世間を見ればイヌモドキどころではなく、キツネとタヌキの騙し合いだらけで、だから世界は面白いのだが、まずは少々退屈でも、生物の命名をもう少し引っ掻いてみよう。
イヌナズナは,道端や農地周辺などに多い越年草。暖かい地方よりも北国でより多く見かける。ナズナに似ているが,花が黄色いことのほか短角果の形もちがう。人里で目にするナズナに似て黄色の花はすべてイヌナズナと思っていい。
広辞苑によれば、「イヌ」はある語に冠して、似て非なるもの、劣るものの意を表す語。別の辞書には、役立つ植物の何かに形態上は似ているが多くは人間生活に直接有用ではないものであることを表す。イヌナズナの他に、イヌムギ、イヌタデ、イヌナズナ、イヌツゲなどがある。イヌタデは、昔ままごとで使った「アカマンマ」のことで、残念ながら食べられない。「タデ」は、その芽を刺身の付け合わせにする。ナズナは、春の七草。ところが、形は似ているイヌナズナは、食べられない。ツゲは、櫛や将棋の駒に使われるが、イヌツゲは、材質がよくなく使われない。
「イヌ」を使う由来は実際の犬とは無関係のものが多く、有用な植物に似ていても「否(いな)、違う」とか「役に立たない」という意味でつけられたものが多い。本物の植物に対してのニセモノといった不本意な命名をされた例も多く、人間用でなく犬用ということから、「麦」に対して「イヌムギ」、「稗」に対して「イヌビエ」、そして同様に「イヌホオズキ」、「イヌタデ」、「イヌハッカ」といった具合。
ところが、「オオイヌノフグリ」の「イヌ」は、本来の犬のふぐりの形に似ていることからついた名称。漢字で「狗尾草」と書く「エノコログサ」は、イヌの尾の形に似ていることからついた名称だが、別名ではイヌではなく「ネコジャラシ」と呼ばれている。同様の例としては、和名「イヌハッカ」と呼ばれている同じ植物が、英名では猫が好む香りのあるハッカという意味で「キャットニップ」(同じイヌハッカ属に「キャットミント」もある)という名前で親しまれている。
こうなると、動植物の命名の歴史は何ともいい加減で不真面目、駄洒落さえOKという歴史であることになる。