「倫理的な正しさ」を、「善」を意識しながら(横に置きながら)考えてみます。倫理的な正しさには次のような三つの異なる立場があります。
・個人の自由をベースに「正しさが善に優先する」とするリベラリズム
・自由を正義の基礎と考えるリバタリアニズム
・正しさは共同体の中で成立すると主張するコミュニタリアニズム
正しさ(正義)とは何か。正面切ってこのように尋ねられると色んな意味で答えに窮してしまう問いです。そこを何とか答えるとすれば、「正しさは倫理的、社会的な事柄を判定する場合の基準」とでもなるのでしょうか。正義とは「人間の行為や制度の正、不正の評価基準」のことですが、それを中心にリベラリズムの立場を考えてみましょう。
現在の道徳、法、政治の哲学ではリベラリズム(liberalism)が顕著です。このリベラリズムは、正義(justice)、公正(fairness)、個人の権利(individual rights)といった概念が重要視される主張で、その哲学的基礎の多くをあのカントに負っているのです。このリベラリズムは、 伝統的な善ではなく、正しさ(the right)を優先する主張なのです。ですから、反功利主義的立場から考えられた倫理ということになり、「義務論的リベラリズム(deontological liberalism)」と呼ばれています。
では、功利主義(ここではベンサムの功利主義を例にします)の立場から正義論を展開しようとすれば、どのようになるでしょうか。行為の正しさは「功利性の原理」によって判定されます。功利性の原理に合っている行為は、しなければならない行為です。また、そのような行為をすることは正しいこと(right)だと言うことができます。このように解釈することによって、しなければならない(ought)とか、正しい(right)とか、 その他同じ類の謂い回しが意味をもつようになります。こうして、(少々真面目に表現すれば)功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を増大させるようにみえるか、それとも減少させるようにみえるかの傾向によって、すべての行為を是認し(approve)、または否認する(disapprove)原理ということになります。ベンサムは、その際の行為を個人だけでなく、国や政府の行為も含めて考えています。ベンサムは、正不正(right and wrong)の判定を苦痛と快楽(pain and pleasure)によって行います。ベンサムは快楽を幸福と考え、幸福の最大化を功利性の原理と考えますから、功利性の原理は「最大幸福原理(greatest happiness principle)」となる訳です。
このように見てくると、功利主義的は個人の利益(幸福)よりも集団や社会の利益(幸福)を優先することになりやすいことがわかります。ですから、功利主義の弱点は個人の権利(individual rights)を尊重しないことです。満足の総和(sum of satisfaction)だけを気にするため、功利主義は一人の人の幸福を犠牲にする場合が出てきます。ですから、功利主義を徹底すると、品位や敬意を否定するような個人の扱い方を認める場合が出てくる可能性があります。
一方、カントの倫理思想は「義務論的リベラリズム」と呼ばれ、道徳的、政治的な理想のなかで正義をトップに置く理論です。各人が自分自身の目標、利益、善をもち、多くの異なる人格から成り立つ社会が最善な仕方で調整されるのは、どのような特定の善も前提にしない原理によって支配されるときです。そこで持ち出されるのが「正しさ」(right)の概念で、それは善に優先し、善とは独立に与えられるのです。カントの倫理思想を善に対する正しさの優位を主張するものと見なすのは、ロールズ的なカント解釈に基づいています。カントは「善意志」について『道徳形而上学原論』の冒頭で次のように述べています。「我々の住む世界においてはもとより、およそこの世界のそとでも、無制限に善と見なされ得るものは、善意志のほかにはまったく考えることができない」(カント 『道徳形而上学原論』岩波文庫、1960年、22頁)。
ロールズは『哲学史講義』の中で、カントの善意志について次のように述べています。善意志はあらゆる比較を許さず、善意志には傾向性を満たすことなどよりも遥かに高い価値があり、その価値は私たちの傾向性すべてを秩序だった形で満足させること(つまり、幸福)よりも高いのです。こうして、善意志には二つの際立った特徴が見られます。第一に、善意志は無条件にそれ自体で善です。第二に、善意志は同様にそれ自体で善い他のすべてのものよりも 価値があります。精神的才能、気質、素質や財産に恵まれていること、幸福といった他のあらゆる善はみな条件つきのものです。ロールズはこのようにまとめて、形式的に理解された善意志を正義と捉えるのです。カント倫理学の義務論的見解では、正義の禅に対する優位は、その要求が先行するからだけではなく、その原理が独立して導き出されるからでもあるのです。
カント的なリベラリズムを現代的に再解釈したのがジョン・ロールズ。ロールズは、『正義論』(1971)を著すにあたって、ロック、ルソー、カントに代表される社会契約の伝統的理論を一般化し、より抽象的に理論化しようとしたと述べています。彼の正義論は、有力で支配的な伝統であった功利主義ではなく、正義に関する体系的な説明案を提出しています。その際、ロールズは、平等に近い意味での「公正」という要素と「自由」とを両立させる仕方で「正義論」を生み出しました。
どれだけうまくつくられ、機能している法や制度でも、それらが正義(justice)に反するのであれば、廃止しなければなりません。誰もが正義に基づいた、侵害できないものをもっていて、どのような理由があろうと、そのことを否定できません。ロールズによれば、公正としての正義の構想は、カント的に解釈することが可能であり、平等な自由の原理もその解釈から導き出されます。
「公正としての正義(justice as fairness)」において、伝統的な社会契約説における自然状態に対応しているのが「平等な原初状態(original position)」です。この原初状態は、実際の歴史上の事態や文化の原始的な状態として想定されたものではなく、全くの仮設的な状態です。これは誰もが自分のことを含めて互いに何も知らないという状態です。正義の諸原理は、「無知のヴェール(veil of ignorance)」 に覆われた状態の中で選択されることになります。「無知の知」の利用という訳です。諸原理を選択するにあたっては、偶然的なブレ、差がなくなることが確保されます。この原初状態は適切な契約の出発点をなすものと位置づけられ、そこで到達された基本的な合意は公正なものとなります。「無知のヴェール」は思考実験で、共同体の生活を律する原理を選ぶために、つまり社会契約を定めるために、全員が「無知のヴェール」をかぶった状態で原則を選ぶと想像するのです。無知のヴェールをかぶると、一時的に自分は何者かがわからなくなります。もし全員が情報0であれば、実質的には誰もが平等の原初状態で選択を行うことになります。これがロールズの考える社会契約、すなわち平等の原初状態における仮説的な同意です。
さて、ロールズは、このような状態では功利主義的な原理が選ばれることはまずないと考えます。無知のヴェールをかぶっている人はみな「自分は抑圧された少数派かもしれない」と考えます。ですから、そこで最大多数の幸福のために自分を犠牲にすることを望まないでしょう。また、徹底した自由競争やリバタリアニズムを選ぶ人もいません。