君はなぜ名前を知りたがるのか

 君は哲学などに興味を持っているためか、妙に名前を知りたがる。まるで、辞書の編纂者か博物学徒のようにもみえるが、どうも君の知り方は彼らとは微妙に違っている。

 名前を知ることは確かにビジネスには不可欠だし、日常生活で自分の周りの人たちの名前を憶えることがいかに大切かを人は経験を通じて熟知している。そこで、君はそれが人の名前ではなく、他のもの、例えば植物や動物の名前となったら、どうであろうかと考える。私たちが名前を知らないことによって不安や不快の念を持つのは対象によって異なることはまずない。足元の昆虫の名前を知らないことは花の名前を知らない、横の人の名前を知らないことと何ら違いはない。違いがあるとすれば、それは実用的な違いに過ぎない。君はそんな風に考えるのだ。

 さらに、君は考える。名前を知ることは知識を使うためには不可欠なことだ、だから、名前を忘れることは知のシステムから切り離され、孤立することにつながると考える。認知症でよく聞く症状は名前を忘れることだが、それによって様々な生活上の支障が生まれてくる。名前を忘れることが名前を知ることの意味をしっかり教えてくれる。「忘れてこそ知る名前のもつ意味」だと君は納得する。

 私たちの知識は名前を知ることによって出来上がる部分を持っている。知識における名前の役割から知識の本性の幾つかを知ることができる、というのが君の予想、見込みである。だから、君にとってものの間の関係にアクセスするにはそれらものの名前の間の関係を知ることが不可欠なのである。

 植物の名前がわからない時の気持ちはどのようなものか。君にとって、名前がわからないと対象が不定のままで、いくら対象を一心不乱に観察しても、何かピントが定まらない。対象の特定ができない儘の宙ぶらりんの気持ちでは、対象が何かを見定めた上で、さらに対象を追求するというお決まりの説明が成就しない、不完全だと君は感じる。

 知のシステムに関わりながら、対象を調べるための具体的な方法がまずはその名前を特定することである。人間関係の記述、描写は人間の名前の間の関係として表現される。自然の風景が画像によって表現されるように、人間社会の風景は言葉によって表現される。

 その名前を知ってから人を知る、その名前がわからないまま、人を知る、その名前を知らずに人を知る、のどれも可能だが、君は圧倒的に「その名前を知ってから人を知る」仕方を優先する。こうして、「その人を知るために先ずはその人の名前を知る」と言うのが君の生活上の常套手段であり、それが君には腑に落ち、納得できる生活態度となっている。

 では、君の生活態度に人はどれだけ賛成するだろうか。これは読者それぞれに考えてほしいことである。