老人の特権「忘れること」について

 私のように70歳を越えると、「知る」こと以上に「忘れる」ことが気になる。というのも、人やものの名前を始終忘れるからである。何かを忘れたことに気づくと、それを懸命に思い出そうとする。「忘れ、気づき、思い出す」という心の中の一連の作業を繰り返すことが毎日の仕事のようになってくる。同じ単語を何度も忘れ、何度も思い出すことなど若い時にはなかったことである。ある植物の名前を知っている時と、その名前を忘れてしまい、何と呼んでいいかわからなくなる時が交互に繰り返すのである。その心理状態の交代が面白くもあり、もどかしくもあり、しかも精神的な年齢を身近に感じられる時になっている。名前が忘れられ、思い出され、それを何度も繰り返すのは余り褒められたものではなく、それが老いるということなのだと自分に言い聞かせても、知る、憶える、忘れる、思い出す、といった繰り返しの中で、「知る」と「忘れる」はどのような関係にあるのか、老人の性としても無性に考えて見たくなるのである。
 「知る」の反対が「忘れる」ことなのか。そうではなさそうである。「忘れる」の反対は「思い出す」であり、「思い出す」は結局「再度知る、知り直す」ことである。「初めて知る」のではない知り方は私たちの生活では珍しいことではない。誰もが忘れる可能性をもっていて、何も忘れない人はむしろ稀である。となれば、「忘れる」の間接的な反対語が「知る」、「憶える」ではないのだろうか。だが、私たちは意図的、意識的に憶えるのに対して、忘れるの方は意図的でも、意識的でもなく(意識的に忘れたいことは沢山あるのだが)、知らずに忘れている。意識的に知ることが憶えることなのだろう。だから、意識して憶えることが「暗記」と呼ばれ、若い時分は苦もなく暗記できるのが普通である。
 学習の大半は知識を憶え、それを適用することであり、忘却は学習にとって敵でしかない。憶えることが学習の楽しみなら、忘れることは学習の失敗を意味している。学習は好奇心を満たし、生きる範囲と自信を広げるが、忘却はそれを妨げ、不幸をもたらす。では、忘れることは憶えることと何が違うのか。好奇心は知ることによって満たされるが、忘れることによって何が満たされるのか。知ることは楽しいことが実感できる例になるが、忘れることにどんな楽しみがあるというのか。
 知ること、憶えること、思い出すことは考えることと何かと相性がよく、協働作業ができる。知ることと考えることの協働作業の一例を挙げよう。「Aを知る、AならばB、BならばC」が成り立つなら、「Cを知る」ことができる。このような作業を忘れることと考えることの間につくることは残念ながらできない。知ることに対して論理規則を使うことは、本人であれ、他人であれ支障はないのだが、忘れることに対して論理規則を使うことは、なにより忘れる本人にはできないのである。
 知ることは意図的、意識的で、いつ何をどのように知るかはわかっている筈になっている。つまり、知ることは自覚的なのである。だが、忘れることは無意識的で、忘れることを意図的に行うことはできない。人はある時思い出せないことに気づき、忘れたことを知るのである。想い出せないことを知ることによって、忘れたことを知るのである。知ると忘れるを巡って色々な事柄がひしめきあっている。それらを解きほぐし、忘れることが何かを「知ること」についての認識論、認知科学を意識しながら考えてみよう
最初の疑問
 記憶とその表現を考えると、記憶自体の不具合と記憶の表現の不具合が似たような障害を起こすことが気になり出す。記憶と言葉は想起にどのように関わっているのか、とても面白い課題に見えてくる。
 年寄りはよく忘れると言われるのだが、その忘れ方にも幾つかのパターンがあることに気づく。健忘と言われる物忘れの多くは、記憶が消失する、飛んでしまうというもので、認知症の典型的な症状であり、大量の飲酒でもよく起こる。何があったか憶えていないのである。もう一つ、よく起こるのが言葉を思い出せない場合で、人の名前、ものの名前が出てこないのである。どちらの経験も豊富な私には二つの物忘れには大きな違いがあり、言葉とそれが指示する対象や出来事との間の違いが気になって仕方ないのである。
 「クスノキ(樟、楠)」は公園や歩道に植えられていて、珍しくない樹木である。私はこの「クスノキ」という名前をよく忘れる。よく忘れるためか、よく忘れる名前であることをしっかり憶えていて、クスノキを見るとその名前が何だったかを確認することが多い。このほぼ習慣化した記憶チェックでも私は相変わらず思い出せない場合がある。「クスノキ」は思い出せなくてもクスノキであることはわかっていて、名前だけがブランクになっているに過ぎないのである。この「クスノキ」健忘に似たものがないか探し出すと、動植物の名前で似たものが結構な数見つかるのである。「トチノキ」、「コアラ」、「アライグマ」、「オオルリ」等、何度も憶えては忘れる例が見つかる。これは人の名前についても同様で、何度も憶えるのだが、また忘れる人は相当数にのぼる。要は、対象の種類に関わらず、ものの名前が容易に忘れられるのだが、そのもの自体は忘れておらず、わかっているのであり、だからこそ、何度も名前を憶えようとするのである。
 一方、対象や出来事そのものを忘れる場合がある。ここには記憶の種類が関わってくるのだが、いわゆるエピソード記憶の健忘である。一連の出来事を忘れることであり、名前を忘れることとはまるで違っている。言葉の問題は背後に退き、一連の出来事からなる物語、世界の中での時間的な区間がすっぽり抜け落ちることである。これが文字通りの記憶の喪失であり、対象の名前の失念とは根本的に異なっている。では、対象や出来事を忘れることと、対象や出来事の名前を忘れることの違いは何なのか。対象や出来事をすっかり忘れていることと、対象や出来事の記憶を不得意な外国語で表現することを比べてみると二つが如何に異なることかはっきりするのではないか。
 記憶について復習しておくと、記憶は陳述(宣言)記憶(declarative memory)と非陳述(非選言)記憶(non-declarative memory)に大別される。陳述記憶にはエピソード記憶意味記憶がある。エピソード記憶は「個人が経験した出来事に関する記憶」であり、出来事の内容に加えて、出来事を経験したときのさまざまな付随情報と共に記憶されていることが重要な特徴になっている 。意味記憶は、いわゆる暗記というタイプの記憶のことで、例えば、テスト前に歴史の年号を覚えたり、英単語のスペルや漢字の書き方を覚えるのが意味記憶である。言葉の意味や知識、概念に関する記憶が意味記憶である。このような復習から、母国語の習得は意味記憶なのか、反復学習と記憶の関係は何か等、色んな疑問が浮かび上がってくる。
 私の物忘れの経験が陳述記憶の二つにどのように関わるのか、自分自身を使った観察はまだ暫く続きそうである。