安土桃山時代に大泥棒として活躍し、京都三条河原で釜茹での刑に処せられたのが石川五右衛門。A君が興味を持ったのはその五右衛門の辞世の句です。
石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ
この歌は戯作者にはもってこいの材料です。「浜の真砂は 尽くるとも」は「砂浜の砂粒は数えていけば、いずれ尽きるのだが」を、「種は尽くまじ」は「盗人の子孫はなくならない」を意味しています。どれほどたくさんの砂粒でも、それを数え上げていけば、いずれは数え尽くすことができます。もしそれができないなら、砂浜は無限の大きさを持つことになり、それは不可能ですから、砂粒の数は有限ということになります。でも、現在の遺伝についての知識から、人の世が続く限り、世代交代が続き、盗人が遺伝されていくなら、それは永遠に続くことになります。さすが五右衛門で、見事に自然と人の世の因果的な特徴を直観的、文学的に把握し、盗人の真骨頂を表現していると感心することになります。
このような解釈によって一見落着に見えるのですが、A君はあえて分析的に考え直してみました。そこで、まず「盗人は遺伝する形質なのか」と問うと、意見が分かれることになります。「盗人」は学習によって後天的に獲得された形質の可能性が高いのです。むしろ、そのように考える人の方が多いでしょう。遺伝形質なら複雑ではあってもその遺伝モデルを作ることができるのですが、後天的なものとなると、モデルには多くの前提条件が不可欠になり、モデルの正確さは著しく損なわれることになります。さらに、学習の機会が偶然に近いとなると、モデル化さえままならないことになります。砂粒を数え上げる前に、盗人という形質は地上から消失しているかも知れません。さらに、この議論の「盗人」を「悪人」に変えてみると、善人、悪人に関する倫理的、宗教的な、お馴染みの議論の再現となり、そうなるとA君の屁理屈は深遠な理屈に衣替えするのです。
A君はこのように屁理屈を並べ、五右衛門の辞世の句は理屈が通っているように見えながら、実際は私たちの不正確な常識に依存したものだと結論しました。さらに、A君は五右衛門の辞世の句の本歌を調べてみました。本歌は古今和歌集の仮名序に挙げられている「わが恋はよむとも尽きじ、荒磯海(ありそうみ)の浜の真砂(まさご)はよみ尽くすとも」と言われていて、「わが恋はいくら数えても尽きることがあるまい、たとえ浜の真砂は全部数えつくすことがあったとしても」というのがこの歌の意味です。無限に恋をするには無限の時間が必要で、誰も無限の時間を生きることはできないことを認めるなら、この表現が文学的な(誤った)誇張や強調に過ぎないことがわかり、何だか興ざめだというのがA君の何とも散文的な解答になりました。確かにA君の理屈は正しいのですが、それでは「恋は尽きず」という心情、情熱は表現できないことになり、無視されることになります。
A君の屁理屈は誤りかと言うと、誤ってはおらず、むしろ理屈に合っています。屁理屈でも理屈ですから、文学的表現の持つ嘘やまやかしが私たちの人生を左右してきたことになり、何とも「背筋が寒くなる」と言いたくなります。でも、ここでさらに屁理屈を言えば、背筋が寒くなるのがどのような身体的状態、あるいは心理的状態なのかは実は誰にもよくわからないのです。とはいえ、それこそが、人が「感性」と呼んできたものの特徴だというのがA君の暫定的結論で、「世に盗人の 種は尽くまじ」という経験的な知識は感性的でさえあるとA君は思っています。
蛇足ながら、二つの歌の英訳を最後に挙げておきます。
・Although the sand on the beach runs out, the thief will never go away in the world.
・My love is endless no matter how many I count, although all the sand on the beach can be counted.