「バラのつぼみ」は映画「市民ケーン」で主人公のケーンが死を迎える際に呟いた言葉。「バラのつぼみ」の正体を探るために、ニュース映画の記者トンプソンが調べ出す。「バラのつぼみ」はケーンが子供の頃に遊んだソリに書かれていたものであることが映画の観客には知らされるが、映画の中の登場人物は誰も知らない。「バラのつぼみ」が何を指示していたかは映画の中ではケーンだけしか知らずに終わる。ケーンが雪の中で遊んだソリは失った母の愛情を象徴していたのだ。
『薔薇の名前』(Il Nome della Rosa)は、ウンベルト・エーコが1980年に発表した小説で、映画化された。14世紀の教皇ヨハネス22世時代のカトリック修道院で起きる怪事件の謎をフランシスコ会修道士バスカヴィルのウィリアム(ショーン・コネリー)とベネディクト会の見習修道士メルクのアドソ(クリスチャン・スレーター)が解き明かしていく。
オッカムのウィリアムは「オッカムの剃刀」で有名だが、合理的で経験的な科学の認識論を目指していた。そのオッカムがバスカヴィルのウィリアムのモデルである。「普遍論争」は中世の哲学での論争で、個別的なものの類概念、例えば個々の人を表す「人間」の形相が実在しているかどうかという論争。実在するというのが「実念論」の立場で、オッカムのウィリアムなどは「唯名論」の立場で、実在するのは個々の人間であって、「人間」という形相は単なる名前に過ぎないと考えた。原題の「その薔薇のその名前(Il Nome della Rosa)」の定冠詞のついた「その薔薇」が具体的なもので、「その名前」は形式に過ぎない。
では、バラの画像は実在するのか。それを撮った私はそれらバラの実在の記憶を持っているが、それを見る読者たちは画像しか知らない。バラの概念は唯名論の立場をとる人がほとんどだろうが、バラの画像の唯名論者はどれだけいるだろうか。バラの記憶やそれを扱う心や精神は唯名論ではどうなるのか等々、哲学的問題の宝庫であり、その入り口に「薔薇の名前」を置いてみることができる。