私たちは言葉をもつ動物です。その言葉は自分の信念や欲求を正確に表現し、的確に相手に伝える力、能力をもっています。真実を、正確に、詳細に、雄弁に表現できるのが私たちのもつ言葉で、その力は他の動物のコミュニケーション能力をはるかに引き離しています。これらの力は言葉そのものの力とその言葉を私たちが操る力との二つに分けることができます。それがタイトルの「言葉のもつ力と言葉を操る力」のことです。
しっかりした文法、豊富な語彙、正確に叙述する文、巧みな表現からなる会話等々、言葉自体が規則的に組織化されていて、それゆえ、言葉を系統的、組織的に習得していくことができます。現在私たちが使っている言葉はみな学習することができ、互いに訳し合うことができます。高度に練り上げられた言葉のシステムは長い歴史の中でつくり上げられ、それは今でも日々変化しています。
次が言葉を操る能力。2歳の幼児は既に言葉を操り、コミュニケーションができるようになっています。言語習得はまだ続きますが、言葉をマスターするとは言葉自体の規則の習得だけではなく、言葉の使い方の習得でもあります。それがさらに進むと、言葉を操る専門家と呼んでもよい人たちが現れます。言葉に係わる職業をもつ人は少なくありません。作家や詩人は言葉を操ることが仕事です。
ここまでは何の変哲もない話。ここからは騙し、欺くという人間的な悪行について考えてみましょう。人を騙すことは倫理的に褒められたものではないというのが相場です。でも、マジシャンは観客を騙せば騙すほど称賛されます。その称賛の理由は何か。人を騙すのではなく、人の知覚を騙すだけだというのがその理由で、これは理屈にかなっています。嘘をつくのもよくないことですが、人にではなく病原菌に対して騙して退治するのであれば、誰も非難しないでしょう。
私たちは信じることを阻むこと、信じることを疑うことができます。そんなことはいとも簡単なことで、デカルトに言われなくても十分知悉していることです。自分が信じていることを疑い、苦悶した経験は誰でも幾度かはしている、ごく普通の経験です。そこから私たちは、「信じたことを単純に真だと信じてはいけない」ことを学びました。その結果は大切この上なく、実証的な真理だけを真理とすることでした。
「信じない、疑う」ことと「騙す、嘘をつく」ことの間には大きな溝があります。信じないのも疑うのも私が自分だけの都合で勝手に意識内でできることであり、それは私的な心理的出来事に過ぎません。でも、騙すのも嘘をつくのも私一人でできることではなく、騙す相手、嘘をつく相手がいる公的な出来事なのです。
「騙される」のも私だけではなく、騙す相手がいなければ成り立ちません。「騙す-騙される」という相互関係はどのような関係なのでしょうか。「騙し合い」はその相互関係が二重に重なった関係です。この騙し合いというコミュニケーションの特別の形態は私たちの社会に緊張と注意をもたらしてきました。騙し合いの存在はコミュニケーションに陰影を与え、コミュニケーションが一筋縄ではいかぬ構造をもち、それがコミュニケーションを人間的なものに仕立て上げてきたのです。
さて、人は何故騙すことができ、そして騙されることが可能なのでしょうか。騙し合いには人の場合、言葉が不可欠な仕方で関わっています。言葉が騙し合いの仕組みを供給しているのです。最初に、言葉のもつ力、言葉を操る力を強調しましたが、それら力は言葉自体のしっかりした構造から生まれるものだと述べました。皮肉なことですが、その力が騙す力、欺く力になっているのです。
この正負の効果は力の裏と表の顔ということになります。記号化、コード化、文法、意味、さらに、表現とその使用というコミュニケーションの堅固な仕組みが信頼できる情報を生み出すとともに、「騙す」、「欺く」、「嘘をつく」ことを可能にするのです。騙すことができない言語があったら、それは言語ではありません。文を自由につくることができ、それを自由に組み合わせて出来事を記述できるのですが、その際、偽の文も真の文も巧みに組み合わせ、事実とは異なる架空の話をつくり上げることも自由にできるのです。
文法規則は正直な使用にも欺きの使用にも公平です。真なる文しか生み出すことができない文法の規則があったとすると、その文法の公理はすべて真なる文で、そこから規則によって生み出されるどんな文も真、このような文だけがつくれるなら、偽なる文は生まれる余地はありません。でも、文法の規則は否定を含まなければならず、ある真なる文からその否定形がつくられ、それは真なる文ではなく、それゆえ、偽なる文になり、それを使って人を欺くのはいとも簡単なことです。
私たちは情報を正しく伝える手法を練り上げ、論理や言語を生み出し、正しい情報を伝えることができるようになりました。真正なコミュニケーションによる情報の伝達と蓄積から知識がつくられ、私たちは世界を征服することができたと言われています。でも、同時に私たちは人を騙し、嘘をつくことができる欺きの手練手管も手に入れることになりました。偽なる概念の発見は真の概念の発見と並んで重要であり、それが神の文明ではない、人間独特の文明をつくり上げてきたのです。嘘、偽、騙し、欺きを許す文明が人間の文明であり、それが人間を幸福にすると同時に不幸にもしてきたのです。
*「創世記」11章 「バベルの塔」の要約
地上の人々はみな「同じ言語を話す、ひとつの民族」でした。東方に移動しながら生活していた人々は、シナル(シュメール)の平野に住み着きました。彼らは神がつくられた「石と漆喰」の代わりに「煉瓦とアスファルト」を使った技術を見つけました。人々は団結力を高めようと、その技術を駆使して「都市」と「天国への階段(=塔)」を築き始めました。 神はその都市と塔を偵察し、彼らの団結力が神の存在を脅かすと危惧します。人間が「単一民族」で「単一の言葉」を話しているこのような事態になったと結論します。そこで、神は地上を混乱させるために人間が使う言葉を互いに通じないようにしました。そのため、人々はコミュニケーション不能に陥ることになり、都市と塔の建設はできなくなり、まとまった集団は崩壊したのです。人々は世界の各地へ散らばり、やがて別々の言葉を話すようになります。こうして世界は分裂し、崩壊した都市はバビロンと呼ばれました。
(Pieter Brugel the Elder, The Tower of Babel, 1563, Wikipediaより)