意識と老化(老化の意識、意識の老化)

 いつまでが成長で、いつからが老化なのか判然としないが、心身の能力や機能にはピークの時期があり、それが過ぎると老化、劣化ということになっているようである。これは人間だけではなく、生き物に共通する特徴のように思われる。私のように70歳を越えると、心身の老化は他人が見てもすぐわかるだけでなく、自分でもはっきり自覚することができる。老人の外観、運動能力の低下、そして心的機能の低下、どれも私は明白に意識することができる。

 そのような心身の老化を明確に意識できること、つまり、自らの老いを感じ、考えることと、意識そのものが老化することとは同じではない。「何かを意識する」ことの中には意識自体も含まれていて、それが「意識を意識する」(省略して「意識の意識」)などと表現されてきた。このような表現は哲学的な胡散臭さを連想させるが、今まできちんと意識できた自らの意識がぼんやりしてわからなくなることは、今では認知症の典型的な症状の一つということになっている。こうして、老化を意識できることと、意識が老化して老化を意識できなくなることの間にははっきりとした違いがあることが具体的に理解できる筈なのだが、認知症の人が自分でその症状を自覚できないことからも、そこに意識がもつ肝心の問題があるようである。
 それゆえ、他人が客観的に測ることができる「意識の明晰判明度」のような尺度が求められることになる。当然、今では質的な尺度が複数存在し、その精度は日々向上し、認知症の症状の程度がわかり出している。視覚の量的尺度に似たようなものがあって、老眼鏡のように意識を矯正して明晰判明にすることができるなら実に嬉しいのだが…だが、心はそう簡単にはいかない。心の老眼鏡はできそうにない。というのも、デカルトの明晰判明な意識と私のそれを比べるなら、老後のデカルトであっても、圧倒的に彼の方が私より明晰判明な意識をもっていると認めざるを得ないからである。それゆえ、明晰判明度の定義は厄介で、一筋縄ではいかない。 

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フランシス・デ・ゴヤ「食事をする二老人」(プラド美術館、1821-23)

 老化を意識できることは、意識の老化を含んでのものであり、正に意識の老化の科学的解明として求められていることである。そのためには、まず自らが意識できない意識の明晰判明度が必要なようである。