量と質:それらを表現する数

 「質と量は根本的に異なる概念であり、対立するものである」と「技の質を高めるには練習の量を増やし、収量を増やすには栽培技術の質を高める必要がある」という二つの表現から、質と量の間には対立する関係と相互補完の関係があることが窺える。このようなことが可能なのは、何によってなのだろうか。この問いは弁証法的な文脈での質と量の関係が対立から補完へ、そして止揚へと変化できる関係であることを可能にしているのは何かという問いでもある。

 量(quantity)と質(quality)は異なるもので、量は数学的に表現できるもの、質は直接に感じとられるもの、というような区別が広く受け入れられてきたようである(では、「質量」とは何なのか、英語だとmassなので、この質問は無意味)。これはアリストテレス以来の伝統でもある。量とは数によって表すことができるもので、身長や体重、国土や都市の広さ、山の高さ等、実に様々な量がある。そして、それらは物理量、統計量、情報量等々として学術的な概念として表現されてきた。一方、質は感覚的な色や匂い(感覚質、qualia)、製品の品質等、一般には数的な表現ができない、あるいはそれが困難と思われているものである。
 では、量は自動的に数的に表現できるのだろうか。そんなことができたら、人類の歴史はすっかり変わっていたのではないか。「重いこと」と100kgとはまるで異なる。それは、私たちの意識や感情、そして欲求とその言語的な表現が異なるのと同じである。量をどのように数的に表現するかの工夫と努力が知識を生み出し、今日の文明を生み出してきたといっても過言ではない。「数量化」などという単語に惑わされてはならない。数と量はまるで異なる概念である。量を扱う数学が幾何学、数を扱う数学が算術や代数、これらが異なる数学であるというのがギリシャ時代の理解だった。
 質が数で表せないというのも嘘である。水質も品質も測ることができ、等級さえ与えられている。大抵の性質は比較することができ、それゆえ良質なものと悪質なものの区別ができる。それゆえ、質についてランクづけが行われ、ブランド化されるのが私たちの今の社会である。
 量を数で表現すること、そしてそれを自由に演算ができる対象にすること、この二つが幾何学の代数化であり、それを可能にした一人がデカルトだった。
 量と質とが異なっても、量も質も数を使って表現することが追求され、表現の範囲は次第に拡大してきた。表現に使われる数は実数が想定されるが、実際に使われるのは有理数(の一部)である。量も質も数で表現するには同じように工夫が必要で、量=数でも、質≠数でもなかったことに注意したい。

*ところで、質量は物体が本来もっている量。質量は不変で、生滅はない。物質がもっている本来の量だから、その物体がどこにあっても質量は不変。質量と質量の間には引力が働く。地球と物体との間に生じる引力が重力で、重力の大きさが重量。

**量から質へ、質から量への変化は、二つのものを数を使って表現できることに依存していることが上記の短文からわかるだろう。