意味の本性(3)

[タルスキ:真理の意味論的観点と意味論の基礎]
(真理の定義)
私たちは日常生活の中で信念、文、言明の真偽を区別せずに語るが、タルスキ(Alfred Tarski, 1901- 1983)が関心をもつのは文の真理である。ある文が真か偽かがタルスキの関心である。それゆえ、真理そのものではなく、言語に依存した真理概念、言語に相対的な真理概念が彼の関心ということになる。ある文が真であるとはどのようなことかが既に理解されている言語M(メタ言語)が存在し、その言語Mに言語L(対象言語)の文がどのように翻訳されるかを決定することによって、言語Lの文について、それが真である、あるいは偽である、と言うことができるのではないか。これがタルスキの基本的なアイデアである。
例えば、「雪は白い」が真 iff 雪は白い、ということを、日本語を話す人はみな知っている。同じように英語の話者は、「Snow is white」が真 iff snow is white、ということを知っている。このような関係が満たされるような定義はどのようになるのだろうか。タルスキによれば、真理の満足できる定義は次のような二つの条件を満たさなければならない。

(1)形式的に正しいこと:言語Lのどんな文Aについても、AがLで真 iff … という形式で表現できること
(2)実質的に十分であること:実質的に十分な定義は、
「雪は白い」が真 iff 雪は白い 
「ファイドは犬だ」が真 iff ファイドは犬である 
等々となる。

真理の定義はこれらのT-文(T双条件法の文で、上の例文)すべての連言である。

(真理の意味論的観点)
 タルスキの有名な規約T(Convention T)は次のような内容である。

規約T:言語Lのすべての文Aについて、AはLで真 iff p
(AはLの文の名前、pはA を翻訳する言語Mの文である。)

「A」はLの文の名前で、「p」は「A」を翻訳するMの文である。言語LとMのレベルの違いに注意しなければならないが、それは次のことからわかるであろう。「「ファイドは犬である」は9文字からなっている」は真であるが、「ファイドは犬であるは9文字からなっている」は偽である。
Lの真理の定義は、規約Tの形式に従っていれば、形式的に正しい。Lの真理の定義は、それがすべてのT文(規約T のすべての例)を帰結するなら、実質的に十分である。この結果がLの真理の意味論的観点であり、真理の意味そのものである。その理由は二つある。まず、規約T それ自体が意味の概念を引き起こす。PがAを翻訳しているのであれば、「p」は「A」と同義となる。次にLの真理の定義には指示や充足といった意味論的概念が使われている。
 
幾つかの帰結の中から、嘘つきのパラドクスだけを考えてみよう。嘘つきがつくる文「嘘つきの文は真ではない」を取り上げてみよう。すると、嘘つきが使う言語Lで、

言語Lのすべての文Aについて、AはLで真 iff p
であるから、Aを嘘つきの文「嘘つきの文は真でない」とすると、

AはLで真である iff 嘘つきの文は真ではない

となり、

嘘つきの文はLで真であるiff 嘘つきの文は真でない

が帰結する。これは矛盾である。タルスキの真理の意味概念は、それを自然言語で用いると、矛盾に陥ることになる。これがタルスキの真理に関する研究の限界である。タルスキは形式的に正しく、実質的に十分な真理概念を与えることだけを意図していた。自然言語のように高階の表現が自由にできるシステムでは真理述語は定義できないことを明確に証明している。

(問)「…は真である」という述語が真理概念の解明に果たす役割についてタルスキの研究を参考に述べなさい。

[クリプキ:規則と私的言語]
S. Kripke (1982), Wittgenstein on Rules and Private Language, Harvard University Press. 『ウィトゲンシュタインパラドックス──規則・私的言語・他人の心』、黒崎宏訳 産業図書、1983.
意味と規則
規則とは行為の処方箋のようなものである。それゆえ、規則は規範的であるようにみえる。すると、行為が規則と一致するかどうかという問いが出てくるが、規則に従うことと規則に合致して行為することを区別する必要がある。
ところで、意味と規則はどのような関係にあるのだろうか。「赤」の意味は「赤」を使うための規則からなっている。つまり、ある語の意味を知ることは、その語の使用のための規則を知ることである。語の使用の規則は語を使うための規範を決定する。語の使用規則はそれを使うための規範を決める。したがって、意味とは規則の集まりであることになる。

懐疑論的パラドクス
68+57という今まで一度も計算したことのない計算を考えてみよう。貴方が私に答えはいくつかと聞くとする。私は初めて計算して、125と答える。

だが、過去に+によって私が意味していたものが与えられたとき、今私が「+」を使うのと同じように、「125」が「68+57}への正しい解答だとどうして確信することができるのだろうか。次の論証を考えてみよう。

(1) 「+」で和を意味しているなら、私は「68+57」に対して「125」と答えなければならない。
(2) 私が「125」と答えるべきなら、これが唯一の正しい解答であることを決める、私についての事実がある。
(3) だが、そのような事実は見当たらない。
(4) だから、私は「125」と答えるべきではない。
(5) だから、私は「+」で和を意味していない。

この論証は妥当にみえる。それゆえ、結論が健全でないなら、前提の一つが誤っていなければならない。どれが誤っているのだろうか。(1)については、それを否定することはとてもできない。(2)についても、正しそうにみえるが、懐疑的な解答では最後に否定される。ところで、私についての事実とは何か。唯一正しい解答を決めることは事実にとって何なのか。事実からアプリオリに演繹可能であることが解答に必要である。私がこれらが事実だと知るなら、私はどのように答えるべきか(経験に頼らないで)演繹できる。
(3)について、それは主要な前提である。私は以前に56より大きな数を足したことがないと仮定しよう。そして、かす算(⊕)を次のように定義すると、私の過去の「+」の使用はかす算と両立することになる。

x⊕y = x+y if x, y<57
= 5 otherwise

だが、そうだとすると、過去の使用は私が「125」と答えるべきであることを決めてくれない。 この論証は私がするどんな解答にも一般化できる。「+」によって私が何かを意味するか何も意味しないかについて決定的な事実はない。「+」によって何かを意味するかどうかを考えることの正当化は私にはない。過去に私が「+」によって和を意味していなかったなら、現在もそうすることはできない。「+」で何を意味するかどうかについて何の事実もない。

解決?
私たちは私たちが何を意味するかについての何の決定的な事実もない、それゆえ、私たちが何を意味するかについての正当化された信念がないという結論の論証を示した。それは明らかに非常識であるため、パラドクスである。これはどのように解決されるのか。パラドクスの解決はなぜパラドクスが始めから認められていなかったかを説明してくれる。パラドクスへの懐疑論的な解決はパラドクスが本物であることを認めるが、どのように私たちの日常的な実践や信念が、にもかかわらず正当化される、許容されることを説明してくれる。
ウィットゲンシュタイン懐疑論的解決によれば、懐疑論は正しい。意味が懐疑論者の仮定する仕方で解釈されるなら、意味についての決定的な事実はあり得ない。懐疑論的解決は根本的に異なる仕方で意味を解釈することである。
私たちは前提 (2)を拒絶しなければならない。
「+」の私の使用によって何を私が意味しているかは、私に関する事実だけからは決定されない。むしろ、私が属している言語的な共同体の中の「+」の使用に対する規則についての事実によって決定される。 私たちは、何らかの事実がそれを真なる解答出と決めることを仮定することなく、「125」と答えることがどのように正しいのかを説明しようとしている。だから、懐疑論的な解決は文の真理条件に訴えようとはしないだろう。その代わり、そのもとで表現や文が使われる、述べられるような合法的な条件が関連するものとなる。私は「5」ではなく、「125」と答えるべきであるが、それは、私の共同体が「+」、「125」等々の表現の合法的な使用に合致すると看做すためである。私が異なる解答を与えたとすれば、私の共同体は私が適切な表現を誤用したと看做すだろう。語の意味は私的な観念であるというロック的な観点は誤りであるというのが帰結の一つである。私的な言語は存在しない。つまり、どんな表現もそれを規則に支配された仕方で使うことに対して共同体の規準から隔離された仕方で有意味に使うことはできない。それゆえ、私は一人で「125」が答えであることを知るかどうかを尋ねることは誤っている。