新しい考えやアイデアを発見するための方法がアブダクションである。それを使って宗教教義を捉えてみるとどうなるかを考えてみよう。異なる宗教教義の比較など客観的にできる筈がないという立場を最初から唱えるより、その立場が正しいという確たる根拠もないことから、まずは考えてみようという訳である。
古代ユダヤ教を母胎にするキリスト教、原始仏教から発展した大乗仏教、いずれも多くの人々の支持を得て、広まったのだが、その変化は「アブダクション(abduction)」によって説明できるように見える。アブダクションは最善の説明を与える推論(inference to the best explanation)(驚くべき事柄を最もよく説明するための推論)で、演繹法(deduction)や帰納法(induction)に比べると、十分知られているとは言えない推論の方法である。推論には演繹と帰納だけではなく、第三のものもあることを主張したのがパース(Charles S. Peirce, 1839-1914)だった。彼はこれをアブダクションと呼び、次のように理解した。
驚くべき事実Cが観察された。
Aが真であったなら、Cは当然のことであったろう。
それゆえ、Aが真であることを信じる理由がある。
パースのこの理解を一般化すると、次のようなアブダクションの定義が得られる。
Dは事実や観察結果のデータの集合である。
HはDを説明する。
他のどのような仮説もHと同じようにはDを説明できない。
それゆえ、Hは多分正しいであろう。
このアブダクションを使った推論の代表例の一つに医療診断がある。患者が医者に症状を訴えると、医者はその症状を引き起こす原因を幾つか推定する。そして、推定された原因の中から真の原因を特定し、その原因の除去が治療ということになる。この診断過程でアブダクションが使われていることは上の定義に照らして容易に確認できるだろう。科学者がもつ驚きを説明する(=解消する)ために世界についての仮説がつくられるが、このような仮説設定は私たちの日常生活においても決して珍しいものではない。
さて、このアブダクションを少々変形し、次のような推論形式を考えてみよう。
Dは事実や観察結果のデータの集合である。
HはDの否定を説明する。
他のどのような仮説もHと同じようにはDの否定を説明できない。
それゆえ、Hは多分正しいであろう。
Dはこの世界の悲惨で不幸な様々な事実の集まりとしてみよう。集まりの中のいずれも実際にあってはならない、例えば虐待や戦争のようなもので、それが実現しない仮説Hが正しいとして受け入れられるだろう。
このような変形アブダクションを幾つかの対立する仮定(今の場合は宗教教義)に対して試験的に適用してみよう。
・ユダヤ教とキリスト教
人類発祥からの物語を綴る「旧約聖書」をもつキリスト教よりはるかに古い、唯一の神ヤハウエを信じる一神教はユダヤ教。現在ユダヤ人と呼ばれる人々を率いて囚われの地エジプトを脱出したモーセは神の啓示を受けて、ユダヤ人こそ唯一神に選ばれた民であり、神の教えを実践すればやがてメシア(救世主)が現れユダヤ人のために神の国が作られると説いた。その言葉に従って生活全般を規制するモーセの立法を実践する宗教がユダヤ教。ユダヤ教の対象はユダヤ人で、その意味で民族宗教である。
一方、キリスト教はそのユダヤ人社会から生まれた宗教。キリストとはメシアが遣わした者であり、キリストは人類(ユダヤ人だけではない)をその原罪から救うために身代わりとなって磔になる。後にキリストの弟子たちがその教えを書き物としてまとめたのが新約聖書。ユダヤ教では立法を厳しく実践することによって己の間違いを正すのに対し、キリスト教では過ちを認めて神に許しを請えば許されるという違いがある。どちらの宗教も社会の底辺にある虐げられた人々が信仰した宗教。
二つの間には、ユダヤ人を対象とする民族色の強いユダヤ教と人類全体を救いの対象とするキリスト教、厳しい戒律のユダヤ教と日ごろの行いに関係なく許しが得られるキリスト教、といった違いがある。ユダヤ教は戒律を重視する。神は絶対で、私たちは神の戒律を守らなければならない。それによって神から祝福されることになっている。だが、キリスト教は戒律の上に神の愛を置く。神に愛されることによって信者が救われる。いずれの神も絶対唯一の神だが、神と私たちの関係は違っている。Hとしてユダヤ教を考えるか、それともキリスト教を仮定するかがアブダクションの違いとなる。
科学理論ならその判定は実証的にできるのだが、ユダヤ教とキリスト教では未だに決着がついたとはとても言い切れない。いずれが最善の仮説かは人によって判定が異なり、実証的に決着をつけることは困難である。だから、ユダヤ教の信者、キリスト教の信者の両方が未だに存在し、さらに悪いことに互いが互いを否定する構図が続いている。信者の数で勝負できるのであれば、キリスト教なのだが…人口は逆転する可能性が残されている。
・カトリックとプロテスタント
プロテスタントとカトリックのわかりやすい違いは、聖母マリヤを礼拝するかどうか。カトリックがマリアを礼拝することはプロテスタントにとってはあり得ない。なぜなら、マリアは人間に過ぎないのだから。そのような違いが生れる根本的な違いは、何に権威を置くか、何を信仰の基準とするかにある。プロテスタントの基準は「聖書のみ」だが、カトリックは聖書と教会に権威があり、教会の頂点に立つローマ法王に最高の権威がある。宗教改革までの長い間、聖書は一般大衆には読めないラテン語で、ローマ法王の言うことが神の言葉だった。
カトリックはアリストテレス哲学、スコラ哲学に影響を受け、人間の理性を認め、救いは信仰と行いによるとする。これに対して、ルターは人間は完全に堕落していて、行いによっては救われず、信仰のみによって救われることを聖書に見出し、宗教改革を起こした。そして、神の前にすべての人は平等であることを主張し、聖書をドイツ語に翻訳した。それがプロテスタントの始まり。
Hとしてカトリックとプロテスタントのいずれが適切かは現在のところ不明。いずれ、キリスト教ではない宗教が信じられ、両方とも廃棄される可能性も残っている。
・自力仏教と他力仏教
これと同じことが自力を基本とする原始仏教と他力の浄土教についても考えることができるだろう。その前に浄土真宗の三つの基本的な仮説を述べておこう。
1他力本願
親鸞が言う「他力」とは、自然や社会の力でも、他人の力でもない。「他力」とは、私から見れば他人の阿弥陀如来の力のこと。「本願」とは、私たちの願望ではなく、阿弥陀如来の「あらゆる人々に、南無阿弥陀仏を信じさせ、称えさせて、浄土に往生させる」という願望のこと。私たちを浄土に往生させ、仏にさせる力が「他力」。
2悪人正機
「悪人正機」とは、「悪人こそが阿弥陀如来の救いの本当の目当て」という意味で、阿弥陀如来の慈悲の心を表現している。阿弥陀如来は、平等の慈悲心から、すべての人に同じ悟りを開かせたいという願いをもつ。それゆえ、この慈悲の心は、今現に迷いの中で苦しんでいる人に注がれる。親鸞は、このような阿弥陀如来の慈悲の心を知り、煩悩に満ちあふれた自分自身にこそその慈悲の心が注がれていると理解した。
3往生
「往生」とは、本来、阿弥陀如来の浄土に往き生まれること。日常的に使われるような、途中で行きづまったまま身動きが取れなくなることではない。阿弥陀如来の本願は、「あらゆる人々に南無阿弥陀仏を信じさせ、称えさせて、浄土に往生させる」という誓い。浄土真宗の往生は、この阿弥陀如来の本願のはたらきによる往生である。親鸞は、如来のはたらきにより信心を得て念仏する人は今この人生において、「必ず仏に成るべき身」となり、命終わった時には浄土に生まれて必ずさとりに至ると示されている。
これら三つの組み合わせをHとして、他の仏教の類似の教義と比較すれば、前の二つの場合と同じうように比較できる。その結果は前の二つの場合と違い、大乗系の鎌倉仏教の出現は他の宗派の教義を駆逐したことから、この世の不合理、不幸の中で極楽に成仏できる途を開いたということができる。歴史的な経緯が浄土教の勝利を現象的に示すデータを与えてくれるが、その根拠や理由はアブダクションによって与えることができる。
これまでの話は多くの読者には戯画としか映らないのではないか。実際の宗教集団の間での布教活動は熾烈な競争であり、それが高じると宗教戦争や聖戦が実際に起こり、アブダクションのような図式通りにいかないのが紛れもない事実である。異なる宗教教義の比較でも、簡単に決着は期待できない。宗教裁判、異安心などその例は多い。だが、このような単純化した話によって理解してほしいのは基本の枠組みである。枠組みが単純であることと、それを使っていずれの仮説がより良いかの判定が単純には決着しないこととは全く別の事柄なのである。宗教教義は単純明解、だがその教義に関わる人間は奇々怪々、というのが真実。