観光地に行くと目に飛び込んでくるのが美術館や博物館。妙高市はどうかと振り返ると、関川の関所道の歴史館、斐太歴史資料館、さらに妙高高原ビジターセンター、くま杉の里の民俗資料館と挙げていくことになるのだが、本格的な美術館、博物館が一つもないことに気づいて、愕然とする。まともな美術館、博物館が妙高市にはないのである。では、お隣の上越市はどうかとなると、上越市は幾つもまともな施設を持っている。すると、二つの市の文化的な格差を感じてしまい、一方は文化都市だが、他方は田舎だという誤った評価を下してしまうことになる。
観光地の箱根や伊豆に目を転じると、いずれも賑やかで、ピンからキリまでの美術館や博物館が盛りだくさん。本格的な美術館、博物館から観光施設まで、様々に林立している。「展示する、見せる、誇示する」という行為は、それだけでも人間の臭いがプンプンしているのだが、さらにその背後には「見たい、知りたい」という人の好奇心と「見せびらかしたい」という虚栄心が絡み合い、それらが醜く透けて見えてくるのである。観光は博物館や美術館の神話をあっけらかんと打ち砕き、それらが所詮見世物に過ぎない観光施設のようなものだということをはっきり示してくれるのである。文化が見せびらかすことなら、上越市と違って妙高市は慎み深い美徳を保持しているのだと痩せ我慢することにも一理あることになる。
性欲や食欲と並んで、それらよりもっとわかりにくく厄介なのが所有欲、いわゆる物欲である。年齢と共に変わり、状況に応じて変幻自在なのが物欲である。性欲や食欲は年齢と共に穏やかになるものだが、物欲はむしろ歳と共に倍加する場合が多い。私たちはものを自分のものにしたいという気持ちを持っているが、そのような気持ちを持っていることによって、ものを隠す、見せない、見せる、見せびらかすことがどのようなことか、また、それらがどのように違うかを手に取るようにわかっている。好奇心だけなら、見る、見たいだけで述べることができるのだが、そこに物欲が加わると、隠す、見せない、見せる、見せびらかす、見せたいことが加わり、知識への関心以外のより人間的な関心を私たちがもっていることがわかってくるのである。
何かを知り、それを誰かに見せ、より詳しく見せびらかすことが哲学や科学の知識を巧みに利用することによって、劇的に私たちの心を捉えることが遥か昔から行われ、それが文化や伝統なるものを生み出してきた。文化や伝統は所有欲、物欲を具体的に表現し、正当化するシステムだと言っても構わないだろう。芸術は人の物欲の表出である。骨董品を集めるのは老人の趣味というより、人の物欲の典型であり、単に所有するだけでなく、それを他人に見せびらかしたいという子供じみた欲望が見事に表出されている。この骨董品集めをさらに大々的に組織化すると博物館や美術館に結実していくことになる。王侯貴族も大名地主もこの子供じみた収集と展示という物欲に支配され、権威なるものがそれをサポートすることによって、近代社会の人間の欲望の一面が浮き彫りになってくる。
こんな風に書くと、大袈裟で病理学的色彩をもつ独りよがりの書き殴りと見られるのだろうが、もっと気楽に博物館や美術館、そして図書館について考えてみたい。私の大学院時代の美学の授業は教室から出て、美術館の中で絵を前に議論するのがほとんどだった。何とものんびりしたものだったが、一枚の絵をどのように楽しく分析するかを体験することができた。その後も、私には美術館はカフェに似て、自由に使える自分の空間だった。むろん、常陳の場合に限られるが、週末以外の美術館の中は静かで、夏は冷房が入り、考え事をするには絶好の場所だった。
私がいた文学部にも収集と展示にこだわる専攻が幾つかある。所蔵と閲覧となれば図書館情報学であり、戦後アメリカの援助でできた超実証的な専攻である。情報や知識の整理整頓、伝達、収蔵等々、バベルの塔のような図書館を有機的な活動体に変えるということが目標となっている。それと正反対のところにあるように見えるのが民族学考古学。これも超実証的で、文書中心の歴史学の中では妙にもの中心で、その発掘方法は科学的なのである。発掘は過去の観察であり、扱う対象は徹底して「もの」である。これら二つは博物学につながるものであり、整理整頓が知識であることの証左になっている。最後は美学美術史学の中の美術史である。これが美術館と繋がっている。美術史学と美術館、そして文化庁は始終談合だらけと言えないこともないが、美術館の学芸員は美術史学の専攻者が圧倒的に多い。
これらの専攻の研究の裏側を垣間見るなら、アカデミックな研究対象が人の物欲の産物であり、その産物をどのように見せびらかすかに寄与しようというのが研究だということになる。ほしい物を集め、見ることを一人で楽しみ、さらにそれを他の人に見せびらかすのが博物館、美術館であり、それに貢献するのが上記の専攻の学問の一部になってきたのである。これまでの話から明らかなように、博物館、美術館が金喰い虫である理由はそれらが物欲の産物であるからなのである。その歴史を簡単に振り返っておこう。
「ムセイオン」は古代ギリシアの研究・教育機関の名前であって、収蔵品の展示場所ではなかった。現在の「博物館」の由来はヨーロッパの王侯や貴族の珍品、逸品の陳列室にある。15世紀にフランス国王シャルル五世の弟ペリー公ジャンが集めたコレクションが最初で、それは「人工物」と「自然物」に二分され、水晶、真珠、珊瑚の宝飾品、羅針盤、四分儀、時計などの機械類、絵画、金銀の工芸品といった人工物と、蛇の皮、糞石、貝穀、鉱物、ダチョウの卵、動物の歯、そして「一角獣の角」などの自然物からなっていた。この人工と自然の区別(artifacts and natural kinds)は今でも常識的な区別になっている。
1415年に始まるポルトガルのエンリケ航海王子による大規模な探検は、世界の範囲を飛躍的に拡大させた。貴重な珍品の陳列室がつくられ、その内容と規模は急速に拡大、膨張していく。その典型例の一つがフィレンツェのメディチ家のコレクションである。
16世紀には、チロルの大公フェルディナント二世がインスブルック近郊のアンブラス城の陳列室を「美術=驚異陳列室」と呼び、壁には絵画がかけられ、天井からは剥製のワニやサメがぶら下げられていた。このように、自然界の産物と人間の産物、古代の遺物と異国の品物を一堂に集めることによって、そのまま世界の縮図を陳列室の中に実現しようとした。17世紀後半になると、美術品のコレクションと自然の産物のコレクションとの二分化が進み、王侯貴族は美術品を、学者や医師は自然界の標本を集めるように変わっていく。
18世紀は博物学の時代であり、それはリンネやビュフォンによって確立される。18世紀のヨーロッパが生み出した新たな世界認識の方法は、ものをその本来の意味から切り離し、目にみえる特徴だけを基準にして分類し、陳列し、整理するという方法だった。それが博物学で、システムとしての世界を明らかにすることによって設計者である神の英知を明らかにするのが目的だった。動植物界の分類を完成させたりンネは、その著『自然の体系』のなかで、生物の世界を階層的に分類した。
近代市民社会の成立とともに、自然標本のコレクションを国民に公開する目的で設立されたのがロンドンの大英博物館(1753年)であり、美術品のコレクションを国民に開放する目的で設立されたのがパリのルーヴル美術館(1793年)である。
ルーブルでは開館直後から、国ごと、流派ごとの展示区分が採用された。美術を作家ごとの時系列の展開として語ることは、すでにルネサンス期のジョルジョ・ヴァザーリの著作『建築家・画家・彫刻家列伝』に端を発しているが、その語りを初の公共美術館としてのルーヴルが展示のなかで具体化した。時間軸に沿つて展示室が配置された美術館のなかでは、部屋から部屋へと巡り歩くことが、そのまま「美術」の歴史を辿ることを意味する。ルーヴルを模して、その後欧米の各地に建てられた国家規模の美術館、例えば、プラド美術館、メトロポリタン美術館、ナショナル・ギャラリーでも、それぞれの国や時代を代表する作家の作品を集めることで、同様の歴史の物語が再現されていった。
上記のような美術館、博物館を訪れると、雑踏の中で展示物を垣間見て、長い距離を歩かなければならない。これは子供や年寄りには過酷な苦行でしかない。このような展示は今では前時代的としか言いようがないのだが、これが観光を支えていることになると、新しい美術館、博物館の将来を左右することになりかねない。美術館や博物館が自らの収蔵物をどのように陳列し、発信していくかは、新しい観光事業の鍵になると思われる。昔の芸術家は職人であり、彼らの仕事は芸術と思われてはいなかった。例えば、寺社、教会の装飾や彫刻は元来信仰の対象で、それらを芸術として崇拝するのは、近代に始まった現象に過ぎない。「芸術」は近代に入り、意図的につくられたものである。芸術崇拝は西洋における近代国家の形成の過程で生じてくる。通常、芸術崇拝はロマン主義から起きたと考えられているが、芸術崇拝は啓蒙主義から生じている。ロマン主義は啓蒙主義の対立物ではなく、啓蒙主義のなかに胚胎する要素の一つなのである。さらに、啓蒙主義は絶対主義王政を基礎づけるイデオロギーとして機能した。
啓蒙主義は宗教を排斥する。ゆえに、教会を超える専制的王権を確立するには、啓蒙主義が必要だったのである。ところが、宗教なしには、多数の臣民を統合することができない。国家が宗教の代わりに見いだしたものが芸術宗教(芸術崇拝)であり、その「神殿、寺院」が美術館である。つまり、芸術崇拝は、ヨーロッパの近代国家にとって不可欠なものとして出てきたのである。芸術は近代国家が生み出した産物なのである。
芸術崇拝および神殿、寺院としての美術館は世界各地に広がった。日本でも明治以来普及した。それは国民国家の形成に大きな役割を果たした。妙高で没した岡倉天心はその役割を推進した一人だった。さらに、「芸術崇拝」が近代資本主義の産物でもあるということを忘れてはならない。例えば、作品の「芸術的価値」は経済的価値とは違う。誰もがそう思っている。しかし、現に、経済的な価値をもつからこそ芸術の価値は高く、それゆえ芸術家の地位も職人より高いという訳である。近年の美術界では、芸術的価値と経済的な価値を区別することもしなくなっている。作品の価値は完全に市場の価格で決められる。作品が最後に納められる神殿であったはずの美術館は、経営難のため、作品を市場に売りに出している。しかし、こうした事態は「芸術宗教」を解体するものではない。芸術が根本的に国家と資本の下にあることを認識しない限り、芸術に反対したところで、それは純粋芸術を求めることと同じように不毛なのである。今の社会では上記の芸術家をタレントと置きかえればもっと直接に理解できるのではないか。
今の日本では独立行政法人国立美術館が運営・管理する国立美術館が5つある。最初の国立美術館である東京国立近代美術館、伝統工芸を継承する京都国立近代美術館、世界文化遺産の国立西洋美術館、万国博美物館から造られた国立国際美術館、コレクションのない国立新美術館。博物館の場合、「国立」と名がつくのは東京、奈良、京都、九州の4か所。こちらは、独立行政法人国立文化財機構が運営。
では、美術館と博物館に明確な違いはあるのか。美術館は絵画などの芸術作品を、博物館は遺物や資料などを展示している。東京国立博物館が1872年、東京国立近代美術館が1952年に開館したが、海外と比べるとその歴史は浅い。文化庁は、国立博物館、国立美術館、国立科学博物館の違いについて次のように述べている。国立博物館は「文化財の保存、活用」、国立美術館は「芸術文化の創造と発展」、国立科学博物館は「自然科学及び社会教育の振興」。つまり、博物館は文化や歴史的なもの、美術館は芸術的なもの、科学博物館は自然・科学技術的なものを収集・展示しているとなる。このような典型的な美術館、博物館とは縁遠い妙高市の準博物館とも言える妙高高原ビジターセンターの場合を見てみよう。
「ビジターセンター」という名称はお役所的な曖昧さをしっかり持っていて、多目的を念頭につくられているため、キオスクから博物館までの役割を担わされている。だが、今のビジターセンターは観光案内より自然保護が目立ち、訪れる人に自然への関心を持たせる動機付けになっているのは確かである。妙高戸隠連山国立公園の妙高地域の自然や文化を知るための展示はよく見ると、結構充実している。だが、博物館としてみると、全くの詰め込み過ぎで、統一された説明がなされていない。展示面積が狭いため、玉石混合の展示にならざるを得ず、少なくとも現在の三倍ほどの広さが必要である。自然環境や生態と民俗的な歴史資料は分けて展示されるべきだし、子供たちに対する教育的な展示のコーナーも独立に必要である。また、折角貴重な図書が集められているのに、読書できる専用の場所もない。さらに、もっと開放的で明るい展示環境が不可欠である。
*妙高高原ビジターセンターのWeb上の説明はよく編集されている。読むだけでセンターがどんな施設かよくわかる(http://www.myoko.tv/mvc/)。そのためか、博物館としては不十分この上ないことが浮き彫りになってしまう。
美術館や博物館の建設には大きな費用がかかる。それだけでも箱物行政と批判される。国宝・重文となればその購入費用は途方もなく高い。建物、収蔵物、学芸員など維持管理には莫大な費用がかかる。かつて私がいた大学で美術館の開設を考えたことがある。大学であるから妙高市以上に美術館はほしかったのだが、結局夢は叶わなかった。それ程の金喰い虫であり、財政が逼迫する行政機関で博物館や美術館を開設することに賛成する人は少ないだろう。
上越市にはある本格的な美術館や博物館が妙高市には一つもなく、心寂しい限りであると嘆いてもいいのだが、観光を逆手にとって伊豆や箱根の真似をするのも一つの手である。だが、実際はそれも難しい。今の私の本音を言えば、斐太の古墳群、斐太神社、関山神社、温泉地群、国立公園をまとめた自然と社会の教育博物館がほしい。見せびらかしながら、お金を儲け、教育に資する施設がほしいというのが私の勝手な欲望である。