味噌や醤油はかつてほどは料理に必須なものと思われていない。だが、昭和の時代は味噌や醤油がなければ生活ができないほどに私たちの食生活を支配していた。大学を出るまで味噌屋を手伝っていた私としては、何がしか述べておく必要があるようだ。
味噌の原料は大豆。昭和30年代に入ると、既に越後や信州の大豆生産は少なくなっていて、そのため随分と高価だった。北海道の大豆が内地の大豆に準じ、それでも足りないと、中国、アメリカの輸入大豆が使われるようになっていた。我が家でも中国、アメリカの大豆をしばしば使っていた。当然内地や北海道の大豆に比べると品質は劣り、アメリカの大豆の袋にはアサガオの種などが混入していた。大豆の加工は煮た大豆を潰すだけなので、子供の私には大した興味をもてなかった。さらに、副産物の納豆も、そして麹を転用した濁酒も嫌いだった。
味噌づくりは2月末から3月中旬までに集中していて、その間に1年分がつくられた。大豆に比べると、麴あるいは麹はとてもデリケートで、その製造作業はとても面白かった。米を3斗か4斗大きな蒸籠(せいろ)を使って蒸すことが麹造りのスタート。もち米を蒸せばおこわ、いわゆる赤飯ができるが、麹の場合は普通の米を炊くのではなく、蒸すのである。食べると固めの蒸し米になるのだが、これを捻ると捻り餅ができ上る。この蒸し米を筵(むしろ)に広げ、温度を下げながら麹菌を均等に播き、混ぜ合わせ、もみほぐしながらまとめ、室(むろ)に収める。室は半地下の保温室で、室の温度を40度近くに保ちながら次の日まで安置する。およそ24時間後に麹折りに分け、折りを積み重ね、折りの麹を2回切り返し、さらに一日置く(麹折りは菓子折りのような木でできた20㎝×40㎝、高さが5㎝程の細長い箱で、ここに麹菌のついた米を入れ、折りを重ね合わせ、熟成する)。
麹は糀とも書くように、米に花が咲いたように胞子がつき、粉雪が積もったように、白い花が咲いたように美しい。甘く気怠い匂いは子供には好きになれないものだったが、室での作業は楽しいものだった。季節は3月初旬でまだ寒いのだが、室の中は暑すぎるほどで、汗びっしょりになるのが常だった。
このようにしてできた麹と塩をすりつぶした大豆に混ぜ合わせ、味噌玉をつくれば、仕込みの作業は終わり。後は8か月ほど樽に寝かすと、味噌の出来上がりとなる。混ぜる麹の量が多いほど、美味い味噌ができるということになっていた。発酵を促し、さらに芳醇にするために酒粕を加えることもあった。できた味噌は大きな木樽に貯蔵されるのだが、この樽が蔵に5つほどあり、梯子をかけて上るようになっていた。造り酒屋の酒樽とサイズは同じだった。時々発酵を促すために味噌をかき回すのだが、その際には長い板を味噌の上に置き、沈まないようにしたうえで作業しなければならなかった。味噌の中に落ちるとそのまま沈んでしまう危険があるのだ。これは若い私にも重労働だった。樽の中の夏は酒の臭いが強烈で、そのためか蚊の棲家になっていたのだ。
そんな味噌づくりは既に遥か昔のことで、今では夢の中にしか登場しない。静かに醸成を待つ大樽の並ぶ蔵も既にない。どれもこれもが妙に懐かしい。