「共生」という言葉は耳に心地よく響きます。そのためか、生物学だけでなく、福祉、環境、文化、社会などの幅広い分野でキーワードとして引っ張りだこです。「多文化共生」、「男女共生」、「地域共生」などの熟語があちこちに溢れ、使われています。「共生」は文字通り「共に生きる」であり、その意味は「共に仲良く、助け合いながら生きる」ことだと疑うことなく思い込まれているようなのです。
人々は「共生」という言葉に惹かれ、それに悪い印象を抱いてはいません。「共生」からは調和的、平和的、利他的なイメージしか醸し出しません。ところが、共生関係は状況によって「相利的」になったり、「寄生的」になったりするのです。人間関係が「利己的」になったり、「利他的」になったりするのに似ていなくもありません。
社会では、お互いが利益を得ているような関係を「共生」関係と呼んでいます。でも、生物学の用語では、そのような関係はより厳密に「相利」と表現されます。生物学における「共生」はもっと広く、文字通り「共に生きている」ことを表現しているだけです。仲がよく見える友だちでも、一皮むけばどろどろした確執があったりということがよくあります。生物学の「共生」という言葉も似たようなものです。複数の生物が密接に相互作用しながら共に生活していれば、それだけで「共生」関係があると見做すのです。
このような観点から氾濫する「共生」という言葉を見直してみると、「共生」の本質には搾取や抑圧や寄生や対立がふんだんに内包されていることがわかるのではないでしょうか。様々な生物の多様な共生現象をみつめ続けていくと、「共生」という関係は決して固定的なものではなく、むしろ状況や環境に応じてダイナミックに変化するものだということがわかってきます。「共生」という言葉が醸し出す理想的なイメージには惑わされず、平和的、利他的にみえる「共生」関係は、一皮むけば多かれ少なかれダイナミックな緊張が見られ、当事者間の競争があるものなのです。そして、そこにこそ共に生きることの本質があるのです。
そこで、少々観点を変えて、自然全体と人間という大規模な共生について、インフォーマルに語ってみましょう。
花々の手の込んだ誘惑は圧倒的で、私が昆虫だったなら、私には抵抗の術がないのです。誘惑にのるように仕組まれた私の生得的な性質は私の行動をコントロールし、花々は私を家来の如くに支配し、操ってきました。私を虜にする色、形、そして、私を縛る香りや匂い。巧みな手練手管に翻弄されるだけの私は極楽を味わいながら、意識することなく奉仕させられる羽目に陥るのです。
このことは私が人間であっても同じで、自然の企みである風景や景色の見事さに私たちは言葉を失う程に酔い痴れ、自然の誘惑には手も足も出ないのです。花が昆虫を支配するように、「自然の恵み」は私たち人間を支配します。自然が花々を含む恵みを生み出し、それらを使って私たちを支配するのだとすれば、結局私たちは昆虫と何ら変わらないのです。
このように自然やその中の事物に支配され、翻弄される人間像は、今の私たちには馴染みの薄いものです。近代以降私たちは自然を支配し、自然の中のものを搾取しながら生きてきました。その生き方が大成功だったゆえに、勝利した人間は一方的に自然を食いものにしてきたと信じられています。それが当たり前のことだと盲信されているゆえにか、自然も人間に負けじと人間たちを利用していることなどすっかり忘れ去られているのです。
自然はやられたらやり返すのです。虐められたら虐め返すのが自然です。共生や寄生、正や負の相互関係が自然やその中の事物の間にあり、一方的な支配関係はむしろ少数で、相互にその関係が入れ替わるような変化が起き続けているのが自然です。これは既に共生関係で述べた通りです。今日の敵は明日の味方であり、主従関係は目まぐるしく変化し、下剋上の世界が展開されているのが自然です。
このように見てくるなら、半世紀以上続く環境問題は自然の仕返しを予言していることになるのでしょう。人間はまず自然の恵みに魂を奪われ、魅了されました。例えば、花の企みに乗せられたのです。でも、次に人間はそれを巧みに利用して花ビジネスを成功させたのです。すると、その次は花の逆襲となる筈です。そんな繰り返しが自然と人間の間で起こっていて、それが今の環境問題に繋がっているのです。今の環境問題とは私たちが搾取してきた自然の私たちへの仕返しなのです。そして、それが自然と私たち人間の共生関係の内容なのです。やられたらやり返す、好きになったら、それを巧みに利用する、そんな共生の中で私たちは生きているのです。