(私のノートへのコメントを二人の方からいただいた。それに刺激され、気になっていた謙信の「第一義」を見直してみた。高校の講堂にあった額の文字が「第一義」。墨の色が鮮やかだったことと、その意味がぼんやりしていたこととが好対照で、孤独な額だと感じていたことを今でもよく憶えている。)
上杉謙信は熱心な仏教徒で、その彼が掲げた「第一義」はブッダが悟った万物の真理のこと。謙信は禅の教えを重視しましたが、その禅思想での謂い回しの一つが「第一義」。「達磨大師と梁の武帝の問答」の中に出てきます。
5世紀にインドに生まれた達磨は、中国に初めて禅を伝えました。その彼が梁の武帝(464-549)と問答しました。深く仏教に帰依していた武帝が「如何なるか聖諦(しょうたい)の第一義(仏法最高の真理、悟りの境地とはどんなものか)」と達磨大師に尋ねます。達磨は「廓然無聖(かくねんむしょう)(カラリとして何のありがたいものもない)」と答えます。それを聞いた武帝は「朕に対する者は誰ぞ」と言います。「そういう、わたしの目の前にいるお前さんは誰なのだ」というわけです。達磨の答えは「不識(ふしき)(知らない)」というものでした。これが有名な問答。
さて、問答で達磨が言いたかったこととは何でしょうか。「禅とは言葉の教えではなく、心と心の触れ合いであり、ブッダの心を受け継ぐこと。真実の教えは厳然として、いつでも、どこにでも在る。それは見せびらかすようなものではない。」といったことではないでしょうか。
さて、上杉謙信と林泉寺の和尚益翁宗謙が上の「不識」という言葉について問答を行います。和尚は、「達磨が「不識」といった意味は何か」と謙信に尋ねます。しかし、謙信はこの難問に答えられませんでした。それ以来、謙信は「不識」の意味を考え続け、あるときわかり、直ちに和尚のもとに参じます。
梁の武帝は仏を利用して自分の存在をアピールしたが、謙信に武帝のような権力者になってほしくない、民あっての為政者であることを肝に銘じて、謙虚な心を忘れてほしくない、と和尚は考えたのです。その和尚の心を知った謙信は、林泉寺に山門を建立した際、「第一義」と大書して刻んだ大額を掲げました。(この話は脚色され過ぎですね。)
最後に、「第一義」と呼ばれるブッダの万物の真理は「世界が諸行無常、万物流転である」ことです。この原理は、どのように無常、流転なのかを説明しないで、問答無用に無常、流転を言うだけで、現在の科学的な原理ではありません。「人は死ぬ」と言っても誰もそれを原理、法則とは言いません。人は死ぬ原因や寿命についての原理を追求するのであって、人が死ぬのは事実に過ぎません。
さて、まず謙信がわかったことは「第一義」が使われた分脈での達磨の「為政者はどうあるべきか」に対する考えであって、「第一義=根本原理」そのものではありません。その後、熱心な仏教徒として謙信は根本原理という意味での第一義を理解し、そのもとで生きることを追求しました。こうして、これら二つをまとめるなら、真摯な為政仏教徒として生きることが謙信にとっての第一義の実践だったのです。
これが素人の私のとりあえずの解答です。