廓然無聖と即天去私

 謙信は熱心な仏教徒で、その彼が山門の扁額に掲げた「第一義」は釈迦が悟った万物の究極の真理を指示する名辞。戦国武将として謙信は禅に傾倒し、その教えを重視した。その禅思想の用語の一つが「第一義」で、達磨大師と梁の武帝の問答の中に出てくる。

 5世紀にインドに生まれた達磨は、中国に初めて禅を伝えた。その彼が梁の武帝と問答した。深く仏教に帰依していた武帝が「如何なるか聖諦(しょうたい)の第一義(仏法最高の真理、悟りの境地とはどんなものか)」と尋ねる。達磨は「廓然無聖(かくねんむしょう)(カラリとして何の聖なるもの、ありがたいものもない)」と答える。それを聞いた武帝は「朕に対する者は誰ぞ」と言う。「そういう、わたしの目の前にいるお前さんは一体何者なのか」という訳である。達磨の答えは「不識(ふしき)(知らない)」だった。これが有名な問答のあらまし(『景徳傳燈録』第三巻、『碧巌録』第一則、『正法眼蔵』「行持」巻(下))。

 「第一則達磨廓然無聖」の本則(禅宗で出される「公案」のこと)はおよそ上述のような禅問答だった。その中心人物は武帝で、仏教に帰依し、熱心に信仰を深めた人物。寺院を建立したり、数多くの仏教家と親交があった。もう一人の中心人物である達磨は「禅宗の始祖」であり、南インドバラモンに生まれ、後に嵩山の少林寺で9年間坐禅を続けたという伝説的な人物。達磨が南インドから梁の国へ来るというので、武帝は丁重にもてなし法話を聞こうとした。武帝は来訪した彼に尋ねた。「私は即位して以来、寺を建立し、いつもお経を称え、仏教を信仰してきたが、どんな素晴らしい功徳があるのか」と。達磨は、「そんなものは、それをすることで利益を得ようとする煩悩の因果を積んでいるのだから、真の善行ではない。」と答えた。そこで武帝は、「では本当の功徳とはどんなものか」と尋ねる。達磨の答えは、「「私」の煩悩が無いからこそ、本当の叡智が顕れるのであり、肉体が自分であるという「私」なるものが無くなってこそ、本当の自由自在の境地になるのだ。それは現世利益を願っていては求めることはできない」。しかし、それがわからない武帝は、「では、聖なる最高の悟りとはどんなものか」と更に尋ねる。それに対し、達磨は「聖なるものもない」と答える。それは一点の曇りもない青空のような晴れ晴れとした心境である。聖や善や功徳や慈善などは、皆その青空に浮かぶ白い雲のようなもので、青空には邪魔なもの。だが、依然として「相対」の心境で「私に対するあなたは誰だ」などと武帝は尋ねる。
 達磨が去った後の会話で志公は「観世音菩薩の化身」と達磨を評する。観世音菩薩とは、相手の心に応じて身を変じる観自在の原理の人格化である。そして、法則の通り「去られる心」は「去る心」が反映しての観自在の働きだから、武帝は去られてしまったのである。小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きて行くことが達磨のこの主張に含まれるとすれば、それは「則天去私」のこと。「則天」は天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと、「去私」は私心を捨て去ること。ここに登場するのが夏目漱石。「則天去私」は彼が晩年に理想とした境地を表した言葉で、宗教的な悟り、漱石の文学観とも解されている。訓読すれば、「天(てん)に則(のっと)り私(わたくし)を去(さ)る」。