花の命、人の命:追記

 林芙美子は一生を「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき 」と述べていますが、その花の命は「君こそわが命」の命と同じものだと多くの日本人は考えてきたのではないでしょうか。それは生き物の命というより、もっぱら人の生命と生活を指しています。「花の命」は科学的な生命を直接的に意味するというより、「言葉の命」と同じように、人生を比喩的、抒情的に表現していると考えることができます。

 命、生命、死、生などがこれまでの歴史の中で表現されてきたことを顧みれば、その表現の仕方や内容こそが日本人の自然観や世界観を生み出してきたのです。そして、感覚的、直感的、感情的な要素が大きな役割を持つのが日本人の自然観や世界観の特徴です。日本人の持つ共同情緒にもなっている「花の命」に基づき、文学的、抒情的な表現によってそれを描き出すことによって、自然や人生が感情をベースに表現され、それらが日本人を支配してきました。花に命があるかと問えば、その問いはポイントレスだというのが通常の科学的な反応なのですが、「花の命は短くて・・・」と感情移入して表現するのが日本人的な反応なのです。

 さらに、植物に応じて、「桜散る」、「梅はこぼれる」、「椿落つ」、「牡丹くずれる」などと言い分けられると、それらは何とも繊細な文学的表現となり、それぞれの花の散り方の特徴を見事に描き、それを人の生死に巧みに反映させているとつい感心してしまいます。そして、サクラが咲くこの時期、流石に「同期の桜」の歌詞を思い出す人は少なくなりましたが、「さくら」の「さくら さくら 今,咲き誇る 刹那に散りゆく運命を知って」を口ずさむ人は決して少なくない筈です。

 「では、「散る、落つ」に対応して、人の場合はどのように表現されるか?」と問いたくなる。多くの人は「人は死ぬ」、「人は往く」などと答えるのではないでしょうか。こうなると仏教の法話ではないかと勘ぐりたくなるのですが、私にはとんでもない的外れの答えに思えてならないのです。確かに、それぞれの花姿、散り姿に応じて動詞を変えて、散り様を文学的に表現し分けていることから、では、人の場合はどのように表現されるのかと思案することに何の不自然さもないように思えるのですが…

 桜や椿の花が散ったり、落ちたりしても、桜の木や椿の木が枯れる訳ではありません。花が散る、落ちることとその木が死ぬことはまるで別のことです。花が終わって、実がなり、種ができ、新しい個体が誕生するというプロセスを考えるなら、「人が往く、人が往生する」ことは花が散る場合とは根本的に違うことがはっきりしています。ですから、「桜散る」や「椿落つ」は人の死とはまるで関係がないのです。それ故、それは明らかに誤った死の比喩なのです。とはいえ、比喩は怪しい比較や誤った対比に基づくものが多いですから、格別驚くべきことではないのかもしれません。

 こうして、日本人は長い間桜や椿の花と人の死を結びつけ、生死の情況を巧みに描いてきたのですが、それは甚だしい誤りを含んでいることがわかります。小学生でもわかる生物に関する基本的な知識をベースに「桜散る」、「椿落つ」を理解し、解釈するとどうなるでしょうか。外連味なく散り、地に落ちる桜や椿の花は迅速に繁殖過程を終了し、次の段階に進むことを意味していて、適確な生存と繁殖の過程が伏在することを物語っています。桜や椿の花は命の儚さではなく、命の誕生、再生を暗示し、象徴しているのです。

 日本人の死生観が桜や椿の花の振舞いに象徴されてきたことは否定できませんが、サクラやツバキの生態に根差した生命観が人々の間にもっと広まってもいい筈です。