花と生命

 植物に応じて、「桜散る」、「梅はこぼれる」、「椿落つ」、「牡丹くずれる」と言い分けられると、何とも繊細な文学的表現で、それぞれの花の散り方の特徴を見事に描き、それを人の世界に反映させているとつい感心してしまいます。そして、サクラが咲くこの時期、流石に「同期の桜」の歌詞を思い出す人は少なくなりましたが、「さくら」の「さくら さくら 今,咲き誇る 刹那に散りゆく運命を知って」を口ずさむ人は少なくないでしょう。

 「では、人はどう表現されるか?」と問いたくなるのが人の常。多くの人は「人は死ぬ」、「人は往く」などと答えるのではないでしょうか。こうなると法話ではないかと勘ぐりたくなるのですが、私にはとんでもない的外れの答えに思えてならないのです。確かに、それぞれの花姿、散り姿に応じて動詞を変えて、散り様を文学的に表現し分けていることから、では、人の場合はどのように表現されるのかと思案し、比較することになるのでしょうが…

 桜や椿の花が散ったり、落ちたりしても、桜の木や椿の木が枯れる訳ではありません。花が散る、落ちることとその植物が死ぬことは別のことです。花が終わって、実がなり、種ができ、新しい個体が誕生する過程を考えるなら、「人が往く、人が往生する」ことは花の場合とは根本的に違うことがはっきりわかるでしょう。ですから、「桜散る」や「椿落つ」は人の死とはまるで関係がないのです。それ故、それは明らかに誤った比喩なのです。とはいえ、比喩は怪しい比較や対比に基づくものが多いですから、格別驚くべきことではないのかもしれません。

 こうして、日本人は長い間桜や椿の花と人の死を結びつけ、生死の情況を巧みに描いてきたのですが、それは甚だしい誤りを含んでいることがわかります。小学生でもわかる生物に関する基本的な知識をベースに「桜散る」、「椿落つ」を理解し、解釈するとどうなるでしょうか。外連味なく散り、地に落ちる桜や椿の花は迅速に繁殖過程を終了し、次の段階に進むことを意味していて、適確な生存と繁殖の過程が伏在することを物語っています。桜や椿の花は命の儚さではなく、命の誕生を暗示し、象徴しています。

 日本人の生命観が桜や椿の花の振舞いに象徴されてきたことは否定できませんが、サクラやツバキの生態に根差した生命観が人々の間に広まってもいい筈です。

*最後の画像は今年のカワズザクラの実で、花が散った後の迅速な過程が窺える。