「なぜ、どうして」への私とは違うA君の解答

 西條八十は童謡や御伽噺の古今東西の常套手段を巧みに用いて、大人が考える子供世界を十分に描写しながら、彼独自の童謡世界をつくり出している。ただ、その世界は極めて優等生的な世界で、模範的な少年少女の世界になっていて、それは閉口だと言うのがA君の実感。既に子供ではなく、でも大人にはまだなっていないA君には大人による子供世界の解釈がしっくりこないのである。

 北原白秋の詩は強烈で、子供の世界は狂気の世界であり、分別とは何かが反面教師の如くに炙り出されている、と言うのがA君の最初の直感である。この詩を児童心理の文学的表現などと解釈したのではわからない子供の魔性が、飾ることなく直接的に表現されている、というのがA君の「金魚」への評価で、そこに白秋の正直さをA君は感じている。

 A君は金子みすゞに対しては点数が辛い。A君は彼女のどの詩も大人の世界の不条理を子供に託して詠ったもので、詩の中で人間の問題を表現し、巧みに気付かせてくれているのだが、解決の糸口はどこにも与えられていないと思うのである。問題の指摘は実に見事なのだが、そして、そのために子供の感性が職人技のように使われているのだが、白秋の詩が訴えている子供の本性さえどこにも登場しないのである。そこにあるのは子供の言葉を巧みに駆使した冷静な大人の問題意識で、問題を提起してくれるのだが、解決の糸口、ヒントは与えられていないのである。素直にカナリアをどうするか提案している八十の「カナリア」の方がずっと正直なのではないか、それがA君の素直な気持ちである。

 でも、A君は金子の冷徹な眼識も嫌いではなく、世俗の世界のもつ冷たいずる賢さに立ち向かっている姿には感動しかないのである。金子はとても寂しい問題提起者、独りぼっちの抵抗者であるというのがA君の素直な人物評である。

 八十も金子も既存の知識に対しては反抗的ではなく、常識への対抗は見られないが、白秋の「金魚」は子供の世界や子供の地位に対する独立宣言のようなもので、それを児童心理による凡庸な解釈に貶めたのでは、この詩の誤った解釈どころか、白秋を冒涜するものだというのがA君の少々生意気な考えである。

 これらの点から、A君にとって秀逸なのは白秋で、八十は誠実に子供世界を大人の目で描いているが、金子は子供を通して大人の問題提起をしていると思われた。むろん、A君も三人がそれぞれ異なる文学的なセンスを持ち、それを見事に表現している点で比較はできても、順位はつけるべきではないと思っている。

だから、「なぜ、どうして」への答えはA君自身がそれぞれの問いに応じて答えていかなければならない、というのがA君流の解答。