赤い実の「赤」に「気づく、意識する(be aware of, be conscious of)」とはどのようなことなのか?「何に気づき、意識しているか」の内容は曖昧で、刹那的、断片的な情報がほとんど。意識や気づきの内容と呼ばれているものは後から脚色され、つくられたものがほとんどで、「正確な意識」という表現は形容矛盾に限りなく近く、「丸い三角形」と同じような表現だと言っても言い過ぎではないだろう。意識をはっきりさせようとすれば意識内容をはっきりさせるしか方法はない。だが、意識内容は意識ではない。生活世界で何かを意識することは瞬時のことであり、その瞬時の意識内容は正確とか不正確とか言えるようなものではなく、特定することさえ厄介なもの。過去の意識内容がそれについて何度も考えられ、精査され、精錬されることによって「正確な内容」と呼べるものに結実し、それが実在や事実として誇らしげに語られる。その結果を私たちは意識内容として確認するのであって、それは最初の気づきの刹那的な内容では決してなく、言葉や概念、つまりは知識が深く関与した結果になっている。
意識することや気づくことの存在、意識の機能や働き、そして意識の意味は色々議論され、実証的な研究も蓄積されてきた。それが、気づきの心理学的、生理学的研究である。気づく内容、つまり、何に気づくのかはそのような研究からは除外されている。痛みの存在や過程と痛みの内容は異なるのと同じように、意識がつくられる過程と意識内容は区別されてきた。意識される過程は生理的な過程であり、意識の内容は心理的で、生理的過程とは別物であると考えられてきた。その典型が記号の使用と記号の指示の間の関係である。二つは別物というのが意味論の基礎にある。記号と記号が何を指示するかは独立しているゆえに、脳の状態と意識内容は独立していると考えらえてきた。
意識こそ生活世界で生きるための適応であり、それによって人間は進化してきた。デカルト以来、意識こそ知識の源であり、人間性の根源と捉えられてきた。意識の内容は確かに世界を知り、対処するための基本であるが、意識することは生物的な適応である。経験するとは意識することであると言えば、とてもデカルト的である。経験が確かである、信頼できるための基準は明晰にして判明な意識であり、その意識は観念の集まりである。デカルトの意識は最初から十分な観念によって生み出される意識であり、上述の過去のことを何度も反省しながらできた意識、観念により構成された意識である。気づくだけでなく、気づいたものを観念によって再構成したもの、それがデカルトの意識である。
気づくのは生物的な反応で、臨機応変さこそ生きる上で重要なことを示している。「気づき、情報処理、そして反応」という過程の最初が気づきであり、直観的な役割を気づき葉もっている。だが、意識はより内容に関わり、その志向性が強調されることからも、「意識=意識内容」という見方がされてきた。気づきが発端で、何かが意識され、判断されるというのが私たちの一般的な了解である。つまり、意識には二つの様態があり、一つは単に状況の一部を気づくこと、他はその状況の内容に関する知識である。直感的にわかる、即座にわかる、気づくことの間の親近性と、論証によってわかる、反省的にわかる、意識することの間の近親性は、一体何を意味しているのだろうか。物語としてわかることと直感的にわかる、気づくことの間には親近性がある。科学理論の説明によってわかることと論証的にわかる、意識することの間の親近性にも気づく。
気づきを評価判定する仕方と意識内容を評価判定する仕方には違いがある。気づきの知識は情報であり、意識の知識は狭義の知識である。気づきはその結果として反応を予想している。気づくことが原因で、その結果として適切な反応がなされるという動物の行動が想定されている。だが、意識についてはそのような結果が想定されておらず、意識だけで完結しても構わないと考えられている。だが、よく見てみると、気づきは生理過程ではなく心理的な出来事である。気づかない過程と気づくことの間の関係が問題なのではないのか。気づきを半ば生理的、半ば心理的なものとして考えることができるなら、媒介的なものとして扱うことができる。経験の最初が気づきであり、気づくことに気づくのは意識の段階である。端的に気づくことが生理と心理の架け橋である。感覚質の大半もこの気づきの段階で存在する。