ユートピア

 「ニワトリが先か卵が先か」という問題に対する解答「A hen is only an egg's way of making another egg(鶏とは卵が卵を産むための手段に過ぎない).」はバトラーの有名な一句(Samuel Butler、Erewhon, 1872, 近年ではRichard Dawkins, The Selfish Gene, 1976)。バトラーはダーウィンが大嫌いで、生物個体中心の個人主義的な自然淘汰説に反対し、鶏という生物個体ではなく、卵の方が実は基本なのだとダーウィンに反対したのですが、それをより正確に表現し直してくれたのがダーウィン主義者のドーキンス(つまり、バトラーの答えは結局ダーウィン的だったということ)。進化を考えるとき、二つの違う見方があります。その一つは生物個体中心の見方。自然淘汰(natural selection)が働くのは生物の個体ですから、個々の生物個体が自然淘汰が働く対象になるという訳です。もう一つの考えは遺伝子を淘汰の対象として考える見方。このような見方は、上述のバトラーの謂い回しに、さらには上述のドーキンスの著書『利己的な遺伝子』に述べられています。この見方によれば、生物個体は、遺伝子によって遺伝子自身の生存を保証するように作られている生存機械に過ぎないことになります。

 知覚経験に頼れば、自然淘汰が働くのは生物個体ですが、生物学の知識に基づけば、自然淘汰が働くのは遺伝子であり、主人公は遺伝子、あるいはDNA。でも、この二つの見方は矛盾するものではなく、両立可能というのが現在の穏当な立場です。要約はこのくらいにして、常識的でない文学形式の一つがユートピアであったことを思い出しながら、バトラーと芥川のユートピア小説を再訪してみましょう。
 バトラーは1872年に「エレホン(Erewhon)」を発表(『エレホン-山脈を越えて-』、岩波文庫、山本政喜訳)。表題はnowhere(どこにもない、now-hereではない)のアナグラムで、ユートピアを舞台にした風刺小説。ユートピアギリシャ語の ou(否定詞)と topos (場所)に由来し,どこにも存在しない場所,転じて,理想的社会,空想的社会を意味しています。ユートピアという言葉を使って理想的社会を主張したのがトマス・モア の『ユートピア』 (1516) 。現代の私たちが素朴に「理想郷」としてイメージする「ユートピア」とは違い、トマス・モアらの「ユートピア」には非人間的な管理社会の色彩が強く、決して自由主義的、牧歌的な理想郷(アルカディア)ではありません。

 主人公ヒッグズは、牧羊を目的として遠い植民地にやってきた22歳の英国人。牧用地の彼方の山を越えたところに何があるか興味を持ったヒッグズは、危険を冒して雪山を越え、そこにたどり着きます。バトラーは、父親と同じ聖職者の道を歩もうと、ケンブリッジのセント・ジョンズ・カレッジに進みますが、キリスト教に疑問をもち、ニュージーランドに渡り、牧羊を始めます。『エレホン』の自然描写は彼の6年のニュージーランド生活から得られました。夜天、焚き火のそばで毛布を巻きつけての就寝、夜のしじまの爽やかさ、時折の水鶏(くいな)の鋭い叫声、火の赤いかがやき、ひそやかな川の流れ、夜半に眼をさますと、頭上には星が見え、月は山上に輝く、すると突然、甘美な平和な感じがわきおこってきます。何日も野天の旅を続けなければ感じられない充足感が描写されています。
 ヒッグズが辿り着いた「エレホン」村の風光明媚なこと、老若男女もみな美しく健康で品位あることが彼を驚かせます。平和なその村の描写はバトラーが愛した北イタリアの風景そのもので、「彼らの手や肩のわずかの動きすらも私にイタリアのことを思い出させた」と彼は書いています。バトラーは厳格な牧師である父親のために暗い少年時代を送りました。この子供時代の唯一の慰めは家族で何度か訪れたイタリア旅行でした。それ以来、イタリアは彼の第二の祖国、終生の恋人となりました。
 さて、未知のエレホンに入国したヒッグズは、懐中時計を所持していたために拘置所に入れられます。やがて、牢屋の番人の娘イルマからエレホン語を習ううちに、主人公は次第にこの国の特別な慣習を知るようになります。エレホンでは、病気になることや醜いことや不幸であることが犯罪。また、いかなる器械の所持も犯罪とみなされ、特に時計を持つことは肺結核コレラになることと同様、死刑にも値する重罪でした。ヒッグズは金髪碧眼の美青年だったので釈放され、首都に住む裕福な家庭の預かりとなることを提案されます。しかし、その家の主人は大金横領の前科があると知ってヒッグズはひるみますが、エレホンでは犯罪は一種の病気であるとして同情されるのだと言われます。それで、エレホン一の美人姉妹がその家庭にいると聞いてその提案を受諾します。
 その家に着くと、早速主人公は美しく優しい性格の妹のアロウヘナと恋に落ちます。ところが、エレホンでは、姉から先に結婚しなければならないというきまりがあるため、ヒッグズに姉のズロラを娶わせようとします。ズロラはやはり美人ですが、性格が悪く、ヒッグズはズロラをどうしても好きになれません。アロウヘナへの愛情が抑え難くなった主人公は、ついに意を決して彼女を連れてエレホンを脱出しようとします。ここでエレホンの「逆さま」の制度慣習について説明しておきましょう。
 ヒッグズは、エレホン国の裁判を傍聴します。すると、まず入廷した被告の男性は妻を病気で失くし,残された三人の子供を抱えて悲嘆にくれているという罪で起訴されました。弁護人は、被告が本当は妻を愛していなかったのだ、と陳述しましたが、それは検事側のたくさんの手紙類によって否定されました。結局、この男は有罪を宣告されますが、ただ、妻にかけた保険金がおりるという理由で、罪を軽減されました。次に出廷したのは肺結核で死にそうな青年。弁護人は被告が保険金を多く取得するために重病を装っていると弁護しますが、それは衰弱して立っていられない被告の病状によって否定されます。判事は被告に無期懲役を言い渡しますが、その際、こう付け加えます。「被告の青年に罪はなく彼はもともと病弱に生れた不運にある、という人もいるだろうが、まさにたわけた言い草だ。不運である、ということが被告の罪なのだ」と。ここで主人公ヒッグズは考えます。「エレホンでは不運、不幸なことが罪で、それは不運や不幸が人を不快にさせるから、同じように、幸運、幸福であることが称賛される。幸運であることは既得権益のうちで最も重要なもの。病弱の両親のもとに生まれ、劣悪な環境で重病に陥った人間の罪は不運であることだ。」と考えて、ヒッグズはエレホン流の罪悪感に同意します。
 さて、物語の最後にヒッグズは、恋人アロウヘナを伴って気球でエレホンを脱出します。愛を確かめ合う前に彼はアロウヘナをキリスト教に改宗しようとしますが、エレホンの伝統的な信仰をもつ彼女は、恋人の宗教を認めながらもそれを受け入れません。二人の真剣な議論を通じて、バトラー懸案の宗教と信仰の問題が取り上げられます。
 エレホン人は偶像崇拝者ですが、その底に「眼に見ゆることなく存在する真摯な力強い信仰」を持っていました。彼らが崇拝する神は、正義、力、希望、愛など、人間の諸特質の人格化でした。人々は、それらのものの原型が雲のはるか彼方の国に客観的に存在していると考えていました。ヒッグズはアロウヘナに反論します。「正義は崇敬すべきものであるという事実は、それがまた生きたものであるという信仰が無くとも、すこしも左右されるものではありません。希望は実在の人格であるということを信じなくなったら、人がそのためにこれっぽっちでも希望を失くすると、本当にあなたは考えているのですか?」「その通りです」とアロウヘナも反論。「人格性の信仰がなくなれば、正義とか希望とかに対する尊敬もなくなり、人々は二度と正しくあることも希望を持つこともなくなるでしょう」さらに、アロウヘナは次のようにヒッグズに迫ります。「あなたのキリスト教の神は、善、智、力についての認識の最高の表現にすぎません。そんな偉大な光栄ある思想の一層生々とした認識を作り出すために、人がそれを人格化し名前を与えたのです。ところで、人々が、神は善や智や力などの人々の抱く概念の表れにすぎないがゆえに、神を一個の人格だと信じなくても神を愛せるようになったとしたなら、一体どうなさいますか」と。
 バトラーはキリスト教の祭司たちが、自分でみたこともない復活の物語やあれこれの奇蹟について語るのを聞いて憤慨していました。彼は、聖職者になるつもりでカレッジを卒業したのですが、イースト・エンドの貧しい子供たちを教えるうちに、洗礼を受けた子と受けていない子とでは道徳上全く差異がないことに気づきます。また、四福音書の比較研究をしているうちに、キリストについての事蹟、なかんずく復活の事実など、は信用できないと思うに至りました。

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 『エレホン』に影響を受けた『河童』は、芥川龍之介が1927年(昭和2年)に総合雑誌『改造』誌上に発表した小説。当時の日本社会、あるいは人間社会を痛烈に風刺、批判した小説であり、同じ年の芥川の自殺の動機を考える上でも重要な作品の一つ。芥川の晩年の代表作として有名で、芥川の命日7月24日は「河童忌」と呼ばれています。そのあらすじを見てみましょう。
 ある精神病患者の第二十三号が語った物語。3年前のある日、彼は穂高山に登ろうとします。その途中で河童に出会い、河童を追いかけて河童の国に迷い込むのです。そこは、すべてが人間社会と逆で、雌の河童が雄を追いかけ、出産時には事前に河童の生活について胎児に知らされ、産まれたいかどうか問われ、胎児が生まれたくないと答えれば即時に中絶が合法的になされるのです。新機械の発明で職工が次々解雇されますが、罷業や社会問題が起きない理由として資本主義者のゲエルは『職工屠殺法』を挙げ、ガスで安楽死させられた河童の肉を食用にすると言うのです。唖然とする精神病患者に、「あなたの母国でも第4階級(最貧層)の女性が売春を余儀なくさせられているのだから、食用を厭うのは感傷主義」と言い放ち、河童の肉で作られたサンドウィッチを差し出すのです。哲学者のマッグは『阿呆の言葉』(自作の『侏儒の言葉』や『或阿呆の一生』の表題のパロディーと考えられる)という警句的著作で「阿呆はいつも自分以外のものを阿呆と考えている。」、「我々は人間より不幸である。人間は河童ほど進化していない。」といった警句を記します。詩人のトックは後に自殺しますが、死後に交霊術により現れ、様々な質問に答え、自分の死後の名声を気にかけます。人間の世界に戻った主人公は、河童を人間より「清潔な存在」と振り返り、対人恐怖が一層激化することになるのです。