ブナ(山毛欅)の意識

 R. DawkinsのThe Selfish Gene (30th anniversary ed.), Oxford University Press(『利己的な遺伝子紀伊国屋書店、2006年)は、それまでの生物個体から見た世界ではなく、DNAの塩基配列からなる遺伝子から見た世界を描き、説明した刺激的な啓蒙書で、世界的なベストセラーになった。では、妙高市の木であるブナの遺伝子を中心にブナの木やブナ林の一生を眺めるとどのようなことになるだろうか。
 そもそも原子のように安定していれば世代交代など必要ないのだが…世代交代は遺伝子が次の新しい乗り物に乗り換えることであり、生物の個体や集団は遺伝子が存続するための手段、道具に過ぎない。ブナの遺伝子は自らが生き残るためにブナの個体を乗り物として利用する。ブナの遺伝子はいつも立派な乗り物を使って自らを維持するために、自らが利用するブナの木を更新し、乗り換えるのである。安定的に乗り換えをするためにブナの木の一生のプログラムをつくり、それを繰り返し実行する。どれほど安定したプログラムをつくっても、ブナの遺伝子の一生は実は大変不安定で、いつ絶滅するかわからない。ブナの遺伝子は偶然に支配されている。こうして、進化という観点からはもっとも規則的なのが個体のブナの木の一生、次に規則的なのがブナの森の一生、そして一番不規則なのがブナの遺伝子(つまりは、種としてのブナ)の一生、ということになる。
 特定のブナの木は名前をつけることができる、ちょうど私の飼い猫に名前をつけるように。だが、遺伝子を固有名詞では呼ばない。だから、遺伝子は意識や自我をもたない。なぜなら、概念に意識をもたせることは考えにくいからである。私の横にあるブナの木に意識を待たせることは不自然ではない。私の飼い猫が意識をもつと私が思い込むように私の横のこの木にも意識があると考えておかしくない。実際、私たちの先祖は木の精や霊を考えていた。ブナの遺伝子がブナの木を利用するために意識をもつと仮定するのは簡単だが、それはメタ意識のようなもので、個々のブナの木に共通し、世代交代を通じて変化しない意識であって、超意識とでも言わざるを得ず、不死の意識になってしまう。誰もそんな意識など想定したくない筈である。