接触の8割減

 専門者会議の接触8割減によって感染者を減らすという考えが首相によって使われたため、今日はニュースからワイドショーまで広くこの8割減の話が登場した。このシミュレーションをした西浦教授自身がTwitterhttps://twitter.com/ClusterJapan、6日に紹介)で説明されている。三つに分けて説明されているが、これまで10人に会っていたら、2人に減らす、というのがわかりやすい。だが、モデル内で数学的にパラメーターの値を1から0.2にするのとは違って、「生活世界で接触の機会を8割減らす」というのはわかりにくいだけでなく、個人の生活を規制することになると同時に、国家、法律、個人の間の関係を見直すことに通じるのである。そんな原理的な問題の前に、「8割減」がわかりにくいため、何をどうすれば達成できるのか意見が分かれ、混乱が起きることになる。国と東京都で自粛要請の内容が異なり、対立が起こり、既に自粛要請の具体化が10日まで実現できなくなっている。パンデミックの倫理にとって、流行阻止が至上命令で最高善だとすれば、こんな議論は悪でしかない。

  戦後の日本の政治風土は国家権力と個人の人権の関係に踏み込むことをせず、それを棚上げにしたままだった。そのため、国や地方によるパンデミックへの対応と人権の問題は他国と違って、曖昧でいい加減な「自粛要請」で済ますしかないのが現状である。そもそも「自粛」を「要請する」とは、「自ら行動を慎む」ことを「他人から求められる」という「自発性の強要」に似た二律背反的で、両立不可能の概念である。例えば、「丸い三角」や「赤い青」に近い概念である。拘束も罰則もなく、法治の手前にしかないのだとなれば、特別措置法は法律とすれば肝心の点が不備だと言われても仕方ない。となれば、法の原型とでもいえる倫理の問題として考えることが一つの方法となるのではないか。感染症と倫理となれば、ハンセン病HIVが頭に浮かぶだろう。パンデミックとなる感染症について、その倫理的な側面を集中して考えるよい機会でもある。

 まずは、他人に「感染させる」、「感染する」ことが悪であり、「感染させない」、「感染しない」ことが善であるという行動の規範を考えてみよう。問題はこれらの行動が独立したものではなく、別の行動に付随するものだということである。Social distancingは感染しないための距離を置く行動のことである。誰も意図的に感染行動はとらないが、どのような自粛要請を行うかで議論したまま進まないということも感染行動の一つだということを誰も否定しないだろう。速やかな自粛行動こそが「感染させない、感染しない」行動であることは専門家会議も国民もわかっているのだが、どうも政府も7都府県もそれがわかっていないようである。私たちの社会行動を職種を目印にしらみつぶしに明文化し、それが上の感染行動とどのように結びついているか、チェックして判定することである。

 見えない感染者を追うことはできないが、上のチェックを通じて感染行動はどれも見えるようになる。また、新型コロナウイルスに感染することがどのようなことかというコロナ体験の情報を共有することも体験の既知化につながる。体験内容を共有することによって感染行動はより正確になる。

 感染症倫理学の新しい地平は感染拡大を防ぐための行動を知ることから始まる。感染症の倫理規範は感染行動の本性を明確に掴むことによって明らかにできる。「隣人は感染者であると思う」、「自分は隣人に感染者と思われている」ことを認め、その容認と両立する行動が接触の削減につながっている。接触しないという行為は、他人が感染者であり、自分が感染者であることに基づいている。接触を断つより弱い立場が接触の削減であり、出発点は「隣人は感染者であると思う」、「自分は隣人に感染者と思われている」ことを承認することにある。