自分史と自伝的記憶

 自分史は誰もが一度は考える自叙伝に代表される自らの生い立ちから死までの物語。タイトルの「自伝的記憶」とは重なる部分が多いが、同じではない。自叙伝には他人が自分をどう見てきたか、自分についての客観的な記録等が求められるが、自伝的記憶は記録ではない。自分の記憶以外のデータ、記載、家族の報告等が含まれるのが自叙伝、自分史であろう。とはいえ、自分史の中核をなすのは自伝的記憶。
 ある人がそれまでに経験した出来事に関する記憶がその人の自伝的記憶。自伝的記憶はエピソード記憶の一つで、過去の記憶の中でもその人にとって重要な意味を持ち、自分自身のアイデンティティを形作るような記憶のことである。記憶の想起は年齢によって異なり、三歳以前の記憶はほとんど憶えておらず、これが幼児期健忘。その理由は、海馬も含めて脳の記憶機能がまだ成熟しておらず、言語発達や自己に関する概念の発達が未熟で、出来事を適切に記憶するのが難しいため。逆に、最近の出来事や、アイデンティティの形成期(青年期から成人前期)の記憶は想起しやすく、自伝的記憶は一生の間にムラがあることがわかる。
 記憶を想起する状況やタイミングなどによって、思い出す内容や記憶に付随するイメージは異なってくる。例えば、小さい頃テニスの練習がとても嫌いだったという記憶があっても、年取ってから思い出すと、練習を続けることで忍耐力が養われたなどの良い面を思い出すように変わることがある。これは、私たちが自分の思い出を状況に応じて意味づけし、組み立て直していることを意味している。つまり、自伝的記憶には再構成して想起されるという性質がある。そして、過去の体験を「誰に」あるいは「何のために」話すかによって、再構成のあり方が変わる。こうした意味づけの変化は、カウンセリングでも使われる。過去の出来事を繰り返し語るにつれ、少しずつ心の中が整理され、初めは否定的だった体験が肯定的に変わっていくことがある。自伝的記憶が文脈に依存して変わることは、それに基づく自分史も変化することを意味している。過去は変わらなくても、過去の解釈は変わるのである。
 見覚えのある景色などを見て昔のことを思い出すなど、何かがきっかけとなって記憶が想起されることがある。匂いが手がかりとなって想起されることが「プルースト現象」。これはマルセル・プルーストの小説の中で、マドレーヌを口にしたことから幼少期の記憶が蘇ったというエピソードがもとになっている。つまり、プルーストの自分史の世界は自伝的記憶に大きく依存した世界なのである。
 
 「自伝的記憶」は人が生活の中で経験した、様々な出来事に関する記憶の総体。自伝的記憶についての研究成果は近年急速に蓄積されてきた。だが、多彩な知見が蓄積されている反面、自伝的記憶独自の理論や研究方法の構築は遅れている。「自伝的記憶」とは人が生活の中で経験した、様々な出来事に関する記憶の総体である。日常の認知に関する研究が盛んになり、自伝的記憶についての研究成果も急速に増えてきた。アメリカ心理学会が編集しているデータベースで「autobiographical memory」と入力すると、雑誌論文だけでも年間平均40件がヒットする。だが、研究の表向きの隆盛とは裏腹に、結果の再現性が低い、曖昧な概念でもある。記憶理論全体の中での位置づけや独自性は不明確である。だが、そのことは、自伝的記憶が興味深いテーマとして、発達心理や社会認知など様々な関連領域で問題になることも意味している。
 では、自伝的記憶は何の役に立つのか。自伝的記憶の研究は様々な方向へと展開しているが、その役割に関する検討や議論が近年活発に行われるようになってきた。自伝的記憶の意義となれば、人に自己の同一性、一貫性を与えてくれることだろう。成人の生活史の分析から、子どもの頃の問題の認知的・情動的表象が「ライフテーマ」として、現実世界に対する認知や行動の基礎になっていることが指摘できる。例えば、ある人は両親が移民であったために不当な扱いを受けた。そのことが彼のその後の選択を方向づけ、法律家としてマイノリティの権利を守る職業を選ばせたのだと回想している。このように自分の人生を一貫した物語として捉えようとする動機や認知は,特に青年期に発達する。これは自伝的記憶が自己意識と深い関わりがあることを示唆している。
 「望ましい自己像」の一貫性を維持するために、時には非常に巧みな「記憶の再構成」が行われることもある。例えば、過去の自分を実際以上に否定的に評価したり、あるいは失敗経験を実際よりも遠い過去の出来事とすることによって、人は「現在まで成長し続けている自分」を確認できる。私たちは会話の中に自分自身の経験を盛り込むことによって、人に何かを教えたり愉しませたり、あるいは会話の内容の本当らしさを高めることができる。それに対して、聴き手が共感的に応答することによって、物語はさらに精緻なものになる。また、集団が記憶を共有することによって、メンバー間の親密度が高まったり、集団としての動機づけが高まるという効果も指摘できる。さらに、全く同じ出来事を共通に経験していなくとも、時代や類似の経験を共有し語り合うことは、同世代や同郷人としての集団的なアイデンティティの形成にも寄与する。このように記憶を共有することが集団の凝集性を高めると考えると、反対に記憶を共有しない新参者が集団に加入することの困難さも了解できる。自伝的記憶の発生そのものが、社会的な文脈と深く関わっていると考えることもできる。人が社会的な生き物であることは自伝的記憶が社会的であることを意味しているのかも知れない。
 自伝的記憶は経験の宝庫であり、将来に向けての動機づけになり、価値観や態度を確認する際の重要な参照知識となる。教員養成系の大学生を対象に、小学校から高校までの教師にまつわる記憶が収集されたことがあるが、「こうしたことがきっかけで教師になろうと思った」、「この先生の影響で自分はこうなった」といった記憶が多数見出された。自伝的記憶のこうした機能は「出発点、転換点」と呼ばれている。さらに、こうした記憶は,頻繁かつ鮮明に想起されていることもわかっている。また、その過程で自分の態度や価値観や動機づけを再確認するのに用いられることもある。ところで、実際に何がその人の態度や動機づけに影響しているかということは、正確には特定できない。しかし、「あれがきっかけで」というかたちで一つの出来事を原因や契機として認識することは、一貫したシンプルな自分史を構築することを可能にする。人は失敗経験から何らかの教訓を引き出し、それを類似の場面で生かすことができる。このように、自伝的記憶はその出来事を経験した時と類似した状況で想起され、行動や判断を決めるのにも役立つ。これは「類推(アナロジー)」に似た機能である。このようなかたちで自伝的記憶が果たす機能は、アナロジー推論や教訓機能、あるいは学習心理学での転移と関連があることがわかる。こうした機能が実行されている時、エピソード記憶(自伝的記憶)と意味記憶(教訓)が相互に作用する、つまり、目前の問題から喚起された自伝的記憶が教訓を引き出す、あるいは教訓を想起するとともに自伝的記憶も再活性化されると考えることができる。
 
 自分史の骨格となる自伝的記憶は自己意識を生み出し、人生の価値や意義に深く関わっている。こうなると、自伝的記憶の解明はこれまでの科学の常識を優に超えている。恐らくは自伝的記憶をつくり、操作し、変えていく機能をもつAIの全体的な構築の中でその役割が特定されていくのだろう。