カントは『純粋理性批判』という厳めしいタイトルの著作の第一部「超越論的感性論」(このタイトルはさらに厳めしい)で、時間と空間に係る議論を展開している。人が対象を知るのは、知る対象が私たちの意識を刺激することから始まると捉えられ、その刺激に対する反応をカントは直観(直感)と呼んだ。つまり、「直観」とは、認識する対象(=外的な物)の情報が感覚器官を通して意識される反応のことである。この定義めいた表現からして、対象と対象についての情報(意識)は根本的に違うことが最初から想定され、その想定こそカントの認識中心の新しい哲学の立場を表明している。知る対象ではなく、知り方を中心に据えようというのがカントの新機軸。それは「対象がある」、「対象を直観する」、「対象を知る」の間にどのような関係があるかは問わず、「対象を知る」ことは対象の直観から始まることの宣言と言えないことはない。
カントは、直観には外部の感覚器官によってもたらされる外的直観と内部の感覚器官によってもたらされる内的直観との二つがあると分類する。外的直観は感覚器官を通じた感覚経験のことだと推測できるのだが、内的直観はとてもわかりにくい。内的直観とは、私たちの記憶や思考のような意識を直観的に知ることを指している。感覚器官を通じた刺激の処理によって情報や知識が生まれるが、この情報処理のどこまでが外的直観かは曖昧なままであるし、内的直観は意識の断片の想起のことを指すのだろうが、想起の仕組みは今でもよくわかっていない。外的直観、内的直観の区別は暫定的でしかないことを確認しておこう。
兎に角、二つに分類された直観はさらに内容と形式に分けられる。内容は感覚器官に与えられる刺激のことだが、その刺激がどのようなものとして受け取られるかは形式によって決められる。カントによれば、外部の感覚器官の形式は「空間」、内部の感覚器官(?)の形式は「時間」である。「空間」は、そのなかに外界のさまざまな事物が含まれ、それらを知ることを可能にする形式である。配置、地理、構造等が空間の具体的な姿ということになるのだろう。一方、「時間」は、受け取られた刺激を「継起的」に並べ、重ねていくことを可能にする形式である。因果関係、経過、歴史等が時間の具体的な姿なのだろう。意識がもつ時間と空間によってその内容と形式が定まることになる。一見見事な仕分けになっていて、流石カントだと唸ってしまう。空間と時間は最初から異なる形式だとされるのだが、そのためには時間や空間がしっかり定義されている必要がある。それはどうなっているのだろうか。時間も空間も無定義のようなのである。
そして、この「空間」と「時間」は、人間の意識の外にある形式では決してなく、意識の内にアプリオリに備わっている固有の形式だとカントは考える。このカントの考えに従えば、人間が意識の中に受け入れることができるのは、空間と時間というアプリオリな認識形式を通して受容される対象(世界)に限られることになり、空間と時間という形式を通さない対象はシャットアウトされることになる。これをカントは、人間にとって「物自体(経験することはできないが、存在することを否定できない対象)」は知ることができず、それゆえ、人間は「現象」を知ることしかできないと表現する。この主張も成程と納得させる不思議な魔力を持っているのだが、ここでも私たちは時間と空間を常識的に理解して自ら魔法にかかっているのである。
内的直観が記憶や想像についての意識を暗黙の裡に想定していることは、私たちの過去や未来への意識が因果的な物語になっていることをいみじくも物語っている。物語の形で記憶し、想像するだけでなく、その意識の系列がやはり物語の形式になっている。では、数学、特に幾何学的な直観はどうなのか。円や三角形は空間的なもので、かつ内的直観である。円や三角形は外的直観と何が異なるのか。ノートに作図された円や三角形は感覚器官を通じて知られるのだが、その同じ円や三角形は内的直観によっていつどこにあったかはすべて捨象された仕方で想起されることになるのか。これは数についても同様で、数学的対象は感覚的な刺激からは独立し、それゆえイデアという実在であると主張されるが、カントの立場は数学の直観主義に近く、彼は意識の対象として数学的対象を捉えているのではないか。
このような疑問はいずれも素人の無知からくる疑問だと一笑に付されてきたものである。だが、認識論はそれゆえにか、「知る」ことについての議論をいつの間にか認知科学に譲ってしまった。とはいえ、カントが「知る」ことに目をつけ、それを哲学の主題にした功績を忘れてはならないだろう。