フイリヤブラン(斑入り藪蘭)

 日本には「ヤブラン」、「ヒメヤブラン」、「コヤブラン」の三種があり、斑入りのヤブランは園芸品種。フイリヤブランは葉の縁に黄や白い縞が入り、通常のヤブランに比べて明るくさわやかな雰囲気がある。名前が示すようにヤブランは山地の藪に自生している。自生地は関東地方以西、東アジア一帯。別名は「リリオペ」。
 ほぼ一年中同じ草姿を保ち、性質が強く、丈夫で手のかからない植物なので、古くから緑化や造園の植栽材料として広く利用されている。病害虫の被害もほとんど見られず、土質も選ばないためか、湾岸地域のあちこちに植えられていて、今花が咲いている。

f:id:huukyou:20190916055114j:plain

f:id:huukyou:20190916055126j:plain

 

実在や情報を巡って:雑感

 実在について量子力学はおよそ次のように考えます。
(1) 測定前の電子のスピンや光子の偏光の量子状態は未確定である。
(2) 測定によって量子状態が確定し、実在化する。
(3) 測定値は特定の値の中からランダムに生じる。
(4) その確率は波動関数ψの絶対値の2乗に比例する。
これら四つの事柄から、測定と実在が密接に結びついていることがわかります。「測定に依存する物理量の実在性」という概念は量子力学特有のもので、古典物理学では測定とは無関係に確定した物理量が実在しています。つまり、古典物理学では測定前の粒子の位置は未知でも特定の位置に実在しているのです。アインシュタインはこの主張に生涯固執したのですが、量子力学では認められません。アインシュタインはパウリに対して「月は見ていないときにはないのか?」という有名な問いかけをして、物理量の実在に対する量子力学の考え方を批判しました。アインシュタインは「観測者に無関係な実在論」に生涯固執し、そのため彼は典型的な古典物理学者とみなされたのです。アインシュタインはマッハの思想に基づいてニュートンの「絶対空間/絶対時間」を否定したのですが、それにも拘わらず、彼は量子力学に対してはマッハの思想を無視しました。ですから、ボーアらコペンハーゲン派は実在性に関してアインシュタインと厳しく対立することになりました。
 その量子力学における「実在性」には次の二種類を区別して考えることができます。
(粒子の検出前) 粒子は情報的に実在している(情報的実在)
(粒子の検出後) 粒子は物質的に実在している(物質的実在)
 『岩波理化学辞典』には「物理量」という単独の項目はありません。これは、『岩波情報科学辞典』に「情報」という単独の項目がないのと同じです。「物理量」や「情報」という用語は、多様に使われるため一義的な定義や説明ができません。町田茂 『量子論の新段階-問い直されるミクロの構造』、丸善フロンティア・サイエンス・シリーズ(1986)に物理量の詳しい説明があります。電子の運動量の場合、古典物理学量子力学では次のような本質的な違いがあります。
古典物理学における物理量:運動量という一つの数で表される量
量子力学における物理量:運動量そのもの、運動量の数学的表現である運動量作用素、運動量を測定して得られる測定値
 ニュートン(阿部良夫訳)『自然哲学の数学的原理』、大思想文庫11、岩波書店(1935)からニュートンの絶対時間、絶対空間について確認しておきましょう。
絶対時間:絶対の、真の、数学的時間は、それ自身として基本性によって、他の対象に関係なく、一様に流れてゆく。それはまた、継続期間ともよばれる。
絶対空間:絶対の空間は、基本性により、他の対象に関係なく常に等しく且つ不動でありつづける。
システムにとって特定の対象が「実在」するかしないかは理論的に決まりません。対象がそのシステムに影響を与えるか否かによって実在性が決まります。物質的/非物質的に影響しない対象を実在すると考えるのは「オッカムの剃刀」に反します。同じものが実在したりしなかったりする例は無数に有ります。その例を幾つか以下に挙げてみます。
・色や音は、健常者には実在するが、先天的視聴覚障害者には実在しない。
・色や音は、健常者には実在するが、測定器には実在しない。
・AさんのクオリアはAさんには実在するが、Bさんには実在しない。
・心は、普通の人たちには実在するが、唯物論者には実在しない。
・数や普通名詞の指示対象は、プラトン主義者には実在するが、非プラトン主義者には実在しない。
・神は、信者には実在するが、信者でない人には実在しない。
・霊や死後の世界は、信じる人には実在するが、信じない人には実在しない。

 非物質的な対象について「実在」という言葉を使う場合には必ず「制限付き」になります。これを無視した途端に無用の混乱/誤解/不信/争いが生じます。情報は、高等動物だけに実在するものではありません。測定器/コンピュータ/ロボットなど無機物にも実在します。この場合、情報は情報を表現する物質に担われて実在しています。これが「情報的実在」です。情報の実在を認めないと測定器/コンピュータ/動物/ロボットの現象は理解できません。情報の実在は、情報の非客観性やシステム依存性と矛盾しません。
物質/物理量の実在と情報の実在では実在の意味が違っています。物体の質量は、物体に実在します。名称/形/色の情報は、物体にではなく人間の脳に実在します。物体の質量の測定値という情報は、測定器に実在します。つまり、情報の実在性はシステム依存的なのです。したがって、実在という言葉は多義的ということになります。物理的実在、物質的実在、情報的実在、心的実在、機能的実在等々…
物理学者は、実在という言葉を物理的実在あるいは物質的実在という極めて狭い意味で使います。量子力学的現象はこのような狭い実在概念のみでは理解できず、情報的実在という概念が不可欠になります。
(心の謎)
心のみが実在すると主張する唯心論がある。
物質のみが実在すると主張する唯物論もある。
 両者の議論が収束するあてはなく、「実在」の意味が哲学者と物理学者との間で食い違い、議論が空回りすることになります。
物理学者は、「測定器の動作や脳の働きは物質現象の一つにすぎない」と考えます。測定器や脳がもつ情報的側面が無視されています。測定器が情報と無関係なら、測定値という概念も存在しないことになります。すると、測定による検証を不可欠とする物理学という理論自体も存在しないことになります。測定器における物質現象は、物理的知識のみで説明できます。測定器が測定値情報を生成することを物理法則のみで説明することはできません。
質量、電荷、エネルギーなどの物理量自体は物体に固有な属性ですが、空間や時間は物理学者が自然現象を理解するために生み出した概念であり、自然界にそのまま実在しているものではありません。相対性理論宇宙論に関する本には「時間、空間はどのように誕生したのか」、「空間による物質への作用」などの記述があります。時間や空間という概念は抽象的なものです。物質と同じ意味で実在しているのではありません。実在しているのは時空間ではなく、重力場や電磁場です。これらの場が物質に作用します。「光を使って空間(の距離)を測定する」という説明もよく見かけます。これは、空間の測定ではなく光伝播現象の属性を測定しています。測定している対象は、あくまでも光に関する現象です。測定の対象は、剛体の長さ/物体間の距離/変化する現象の周期などです。空間、時間そのものは抽象的概念なので、測定の対象になり得ません。
相対性理論の本には「空間が曲がっている」という説明があります。これは、幾何学的空間が曲がっていることを意味するのではありません。幾何学は数学の一部門ですから、物質とは無関係です。重力場で光の進路が曲がるので「空間が曲がっている」と表現しているだけなのです。相対性理論の時空間は、光伝播の経路(「測地線」)によって仮想的な目盛りが付けられます。この時空間は、数学的な幾何学的空間ではありません。この曲がった「物質的空間」を抽象化したものが非ユークリッド幾何学に対応しているだけです。
脳の思考回路が作ったものを実在すると錯覚しているものは多数あります。自然数、「机」「りんご」などの概念が宇宙に実在すると主張する哲学者はプラトン主義者と呼ばれてきました。私たちも時間や空間、目に映る風景、色や形などが実在していることを疑いません。その意味では私たちもプラトン主義者かも知れません。このような抽象的/感覚的なものを実在していると信じ込むのは脳の機能によります。これらが実在しているのは物理空間ではなく脳の「思考空間」の中です。
 歴史的に考えれば、物理的空間と数学的な幾何学的空間は深く関係してきました。古代エジプトで開発された測量技術を抽象化し体系化したのがユークリッド幾何学です。ガウスは、(1)ユークリッド幾何学が実際に地球上で成立しているかどうか、(2)三角形の内角の和が180度に等しいかどうか、を実験で確認するため測量しました。ガウスは非ユークリッド幾何学の可能性を見出したのですが、無用の混乱を避けるために公表しませんでした。ユークリッド幾何学は、絶対的真理として誰も疑うことはなかったからです。ヒルベルトの『幾何学基礎論』では、「点」「線」「面」に日常的な意味はありません。それらを「椅子」「机」「鉛筆」などの言葉に置き換えても数学的には問題ないのです(形式主義)。

キカラスウリ

 東京の湾岸部は埋立地である。そんなところの自然など貧弱に決まっている、というのが通り相場の意見だが、そんな常識が通用しないのが自然の不思議なところ。埋立地の湾岸地域を侮ることなかれで、意外に豊かな自然が顔を見せている。今日の主役はキカラスウリ(黄烏瓜)。あちこちの空き地に元気に花を咲かせ、実をつけ始めている。
 キカラスウリはウリ科の植物で、つる性の多年草。赤い果実のカラスウリに対し、黄色の果実がキカラスウリ。花は6月から9月にかけて日没後から開花し、翌日午前中から午後まで開花し続ける。両方とも夕方に花が開くのは同じだが、カラスウリの方は朝にはしぼみ、キカラスウリの方は夜が明けても暫くは咲いている。夜に咲く植物はスズメガの仲間に花粉を運んでもらうために、白や黄色の明るい色の花をつけ、良い香りを漂わせる。カラスウリに比べてキカラスウリの方が開花時間が長いということは、なにか花粉媒介の仕組みに違いがあるのかも知れない。
 花は白色、あるいはやや黄味がかった白色で直径5〜10cm程度。花冠は3〜6枚に裂ける。キカラスウリの花の先は糸状になり、長さは多様だが、カラスウリよりも総じて太く長い。結実した果実は緑色で、結実後2ヶ月程度で黄色に変わり、11月頃には黄熟する。熟した果実の種子周囲の果肉部分には甘みがあり、食べることができる。カラスウリが赤く熟すのに対して黄色く熟すのがキカラスウリの名の由来。
 実はその形状から瓜であるのは間違いないが、なぜカラスなのかは昔からの私の疑問。カラスウリの名前は鳥のカラスとは関係がなく、由来に関わる正しい漢字は「唐朱瓜」。「唐朱」とは唐から伝来した朱墨のこと。カラスウリのあの鮮やかな実の色がその色に似ていることから唐朱瓜と呼ばれたらしい。となれば、キカラスウリは「唐黄瓜」となる筈だが、「黄唐朱瓜」が転じて(?)、「黄烏瓜」。

f:id:huukyou:20190915044035j:plain

f:id:huukyou:20190915044049j:plain

f:id:huukyou:20190915044107j:plain

 

好奇心旺盛な子供の疑問、あるいは禁断の疑問

 人だけでなく、どんな動植物も、みんな生きている限り、「生きる」ために一生懸命であり、生きることを肯定的に見ることに疑問の余地はないと思われてきた。だが、一方には規則的な世代交代が繰り返され、生物の集団が維持され、社会が存続することへの期待はすこぶる大きい。私たちの食べ物は、規則的に収穫、捕獲されるが、そのためには規則的に生産されなければならない。
 生物一個体は一途に生きることを本能とし、集団は安定的な世代交代を繰り返して永続することが特徴になっている。この二つの本能と特徴はよく考えてみると、互いに両立しないものである。個体の永遠の命と集団の永続性は互いに矛盾する。つまり、個体が生き永らえると、集団は若い命を供給できにくくなり、集団が規則的に若返ると、個体は生き続けることができにくいことになる。つまり、集団の安定的継続は個体の規則的な死を前提にしていることになる。
 早熟な小学生ならこの位の疑問を平気で思いつき、その答えを見つけようとするのではないか。残念ながら、今の私たちはこの生意気な小学生に十分納得できる答えを用意できないのである。
 医療は個体のためか、それとも集団のためかと問われ、医者を含め、大抵の人は疑いなく両方だと答える。だが、上述の内容を受け止めるなら、医療が延命のためである限り、両方の為だという答えはあり得ない。個人に対する医療と集団に対する医療は、それゆえ、違った目的や内容をもつことになる。医の倫理への関心が高まったのは20世紀後半だったが、個人の場合と集団の場合で異なる倫理基準があるのかと問えば、実に曖昧で、倫理のターゲットが個人なのか集団なのか不定の場合がほとんどだった。
 20世紀以降の医学の進歩は、人の生と死に関わり、それまで神の領域だった生と死を人の手に委ねることになった。個人と集団の間をつなぐのは生と死である。個人と集団の間にある因果的な関係は個々の生と死であり、集団の変化はメンバー個々の生と死によって引き起こされる。
 「個体は自らの意志で生まれるのではないが、自らの意志で生きようとする。個体は自らの意志で死ぬのではないが、自らの意志で生きようとする。」というのがこれまでの通り相場だった。だが、医療技術の進歩はこの言明を否定するところまで来ている。不死の願いは集団の永続性に抵触し、個体の不死が集団の絶滅を結果することになりかねない。
 「死の倫理」と「集団の倫理」は違うものだが、いずれも同じようにタブー視されてきた。それらは死の礼賛や集団への自己犠牲として禁忌概念として、忌み嫌われてきた。倫理はもっぱらよく生きるための作法と考えられ、扱われてきた。集団や群を優先することは危険思想だというだけでなく、科学的にも信用できない概念(例えば、群選択)と捉えられてきた。
 賢い子供たちはこのようなこれまでの大人の対処にどのような反応を示すのだろうか。個人主義、利己主義、自我など、いずれも「生きる」ことを前提にした思想や概念である。「死ぬ」ことを基本に置いた倫理や道徳は果たして宗教なのだろうか。そもそも「死、死ぬ」を前提にすること、認めることはどのようなことなのか。かつての因果応報、諸行無常、盛者必衰、無常観といった仏教思想はどれだけ倫理として精緻化されたのだろうか。残念ながら、倫理思想としては洗練されず、宗教的な信念や感情を文学的に表現するレベルで終始したのではないか。
 最後に、あなたなら鋭い子供たちの疑問にどう答えるだろうか。

 さて、そもそも、人が永遠に生き続けるということは起き得ないので、自然の摂理に従うなら、世代交代はひとりでに進む。問題があるとすれば、それは①不死が実現する②世代交代のための個体の死を積極的に推奨するような倫理が現れる、ということと考えられる。答えを出しにくい疑問は表に出さないのが大人の分別だが、子供は無邪気に好奇心に従って隠すことをしない。一度出された疑問は隠すことができず、向き合わなければならなくなる。だが、その疑問と個々の病気の克服、個々の社会集団の持続というそれぞれの課題探求とは別の事柄である。そして、それが私たちにとって何を意味しているのかじっくり考える必要があるというのが子供の疑問だった。今のところは別の事柄だということに胡坐をかいて、二つの関係を議論していないのが実情である。個の生存と個が属する集団の持続は独立したものどころか、密接に繋がっていて、どのように繋がるのが適切なのかは事実だけでなく個の意思や行為に依存している。
(補足)
 個人や個体を中心に生物世界を考えるのは、個人主義によって支えられる近代社会では当たり前のことであって、その思想はダーウィンにも色濃く表れている。自然選択(natural selection)は個体に働くのであって、組織や集団に働くのではないというのがダーウィンの基本的な立場。個体が選択の働く単位になっている。一方、性選択(sexual selection)はダーウィンにとって自然選択とは違った選択だった。ダーウィンには性選択が働くのも個体だったが、それゆえに自然選択とは違う働き方が想定され、別の概念として捉えられた。確かに、「生存」と「生殖」は多くの点で異なる生命現象である。生きることと子供をつくることは微妙に異なる。「生きていないと子供はつくれませんが、子供をつくらないと生き残ることはできません」と言われた時、前者の主語は個体だが、後者の主語は集団である。戦前までの日本は家中心の社会だったが、集団を家に置き換えればその違いが実感できるだろう。生存は一個体でも可能だが、生殖は一個体ではできない。これは有性生殖のもつ基本的な特徴なのである。
 このように個体の生存と集団内の生殖を上述のダーウィンとは違って、二つは異なるレベルの視点から捉えた生物世界だと割り切ってみることも可能である。選択は複数の異なるレベルの対象に働き、異なる結果をもたらすという捉え方で、階層的に生物世界を捉える見方として20世紀に常識になるものである。個体レベルと集団レベルは異なるレベルであり、その異なるレベルに選択が働くという訳である。中でも一世を風靡したのがドーキンスの考えで、個体や集団ではなく、DNAを中心のレベルにした見方だった。分子遺伝学の台頭とも相俟って、DNA中心に生命現象を捉えることは単なる流行ではなく、生物学の実際の研究方法として当たり前になる。「ニワトリかタマゴか」といういずれの単位が因果的に原因なのかという哲学的な問いは、個体でもその卵でも、ましてや集団でもなく、DNAだと決着がついたのである。事態はそれによってスッキリしたのだが、人という個体のもつ自我や、意識といったものの存在を消し去ってしまうことになったのである。自我のDNAがあったにしても、それは自我ではなく、自我になる萌芽、種子に過ぎない。
 自我や意識が還元されてしまったDNAレベルでは個体と集団は擬似的レベルに過ぎなく、いわば砂上の楼閣であり、自我や意識はどこにもない。だから、私たちが「自ら生き永らえることと自らが属す共同体の持続のいずれを選ぶか」と自問自答するとき、何に頼ってその答えを見出したらよいか暗中模索しなければならなくなるのである。人それぞれに答えを見つけることになるのだが、その際に生物学、医学は何を教えてくれるのかを私たち自身がわからないのである。
 複数の対象を異なる複数の見方によって別々に捉えることは珍しいことではなく、物理現象でもミクロなレベル、日常のレベル、マクロなレベルで異なる物理理論が使われる。それと同様に、生命現象でも異なる理論が使われても何ら不思議ではない。異なる理論が両立しない主張をもつことは物理現象でも生命現象でも同じである。だから、個体と集団のいずれを優先するかは理論によって異なることになる。となると、いずれの理論を優先するかが問題の解決だということになるのだが、誰もこの分別臭い、暫定的な答えに満足はしない筈である。
 結局、大人は分別をもっている限り、個人の生存と集団の持続のいずれをどのように優先するかに対して、状況依存型の局所的な解答しか出せない、ということになり、これが大人の頼りない補足である。

 

ゴシキトウガラシ

 トウガラシはナス科トウガラシ属の植物。日本ではタカノツメが有名だが、激辛のハバネロやタバスコもトウガラシ。また、ピーマン、シシトウ、パプリカなどもトウガラシの品種の一つ。トウガラシはメキシコと南アメリカ中央部原産で、ゴシキトウガラシ(五色唐辛子)はそのトウガラシの変種。実は未熟の緑色から、時間が経つにつれ、紫、橙、黄、白と変わり、熟すと赤色となる。ゴシキトウガラシは食用のトウガラシと同属だが、色とりどりのカラフルな実を観賞し、食用ではない。実の形は丸から円錐状のものなどがある。葉は濃緑で実との対比が鮮やか。
 トウガラシは「唐辛子」と書くため、中国から朝鮮半島を通っての伝来と思われがちだが、「唐」は「外国」を指し、中国経由で伝わったのではないという説がある。ポルトガル人宣教師が大友宗麟に唐辛子を献上したが、食用となるのはかなり後で、最初は観賞や足袋の中に入れて霜焼け止めにしていた。それが秀吉の朝鮮征伐の際に加藤清正朝鮮半島に持ち込み、キムチに使われるようになったというのである。唐辛子は朝鮮料理には不可欠だが、この説によれば、その唐辛子は日本経由ということになる。実際、倭国(日本)から伝わったので「倭芥子」と呼ぶという記録が残っている。一方、日本には「高麗胡椒」という言葉が残っていて、朝鮮に行った秀吉の兵が日本にトウガラシを持ち帰ったという説がある。では、いずれが正しいのか。いずれであれ、キムチの味に変わりはなく、キムチを楽しむ方が得策なのだが…、人はとかくいずれの説が正しいかを歴史問題にしたがる。

f:id:huukyou:20190914045732j:plain

f:id:huukyou:20190914045744j:plain

 

スポーツと観客、風景と観光客など

 スポーツはルールをもち、勝ち負けがゴール。行為のモデルとしてスポーツを捉え、観光も人の行為だとすれば、そこから何が見えてくるのか。それは本末転倒だと訝る向きもあろうが、それに抗して、一般的な行為をスポーツや観光によって解釈してみよう。
 関心のないスポーツに対して私たちは傍観者になる。それを見るのは偶然であり、自ら関与することはない。だが、関心をもつスポーツとなると、人は観客となる。単なる風景には傍観者であっても、絶景には観光客となって足を運ぶ。積極的に劇場に出向くのと同じで、自らの欲望をそのスポーツ、絶景に関与することによって満たそうとする。観客、観光客は、行為主体としてスポーツの試合や舞台のプレーヤー、当事者になるのではなく、彼らのもつ役割、状況がなく、実行される状況や場面が付随していない。
 こうして、傍観者、観客、観光客、当事者の異なる役割を私たちはもっていて、融通無碍にその役割を演じ分けていることになる。サッカーの選手は舞台の役者、行為の実行者と同じであり、特定の試合という文脈が定まった上で存在している。それゆえ、ローカル、局所的でなければ当事者にはなれない。文脈に埋め込まれることによって、試合に参加できるという訳である。一方、スタンドの観客は試合を外から見ていて、グローバルな立場から観覧している。敵の動向もよく見え、試合に対しては第三者、外国人のような立場をとることができる。こうして、ローカルな参加者とグローバルな観客という二つの立場があることになり、観光地の住民と観光客の立場を考える際のモデルになる。
 さて、このようなモデルを念頭に置くと、A市民も上述の三つの役割を演じ分けていることになる。試合や舞台の場所はA市。これはB市民とは異なるローカルな背景である。市民とすれば、誰もが三つの異なる役割をもつのだが、それでもそこには軽重の差が残っている。
 傍観者、観光客、当事者の間の関係で注目すべきなのは、グローバルな観点からローカルな観点への移行である。普通の日本人は傍観者としてA市を捉える。傍観者であるからグローバルな視点からA市を考えることができる。その中でA市でスキーを満喫した人は観光客であり、彼らはA市での快楽を享受したのだ。A市の観光を支える関係者は当事者として地域の中でA市を演出する人たちである。彼らはローカルな事柄に執着せざるを得ない。
 A市民はA市に対してどのような立場でどのように振る舞ってきたのか、あるいはこれから振る舞うのか、暇な際に是非思いを巡らしてほしい。

トケイソウ

 既にトケイソウを取り上げたが、まだ夏の名残で咲いていた。トケイソウ(時計草、パッションフラワー、passion flower)はトケイソウトケイソウ属の植物の総称。名前のように壁掛けの時計盤のような花をもつ。画像には花、蕾、小さな丸い実が見えるが、実はオレンジ色に熟す。英名は「情熱の花」ではなく、「キリストの受難の花」。イエズス会の宣教師らが flos passionis と呼んだものの英訳。16世紀、原産地の中南米に派遣された彼らは、この花をアッシジの聖フランチェスコが夢に見た「十字架上の花」と信じ、キリスト教の布教に利用した。彼らによれば、花の子房柱は十字架、3つに分裂した雌しべが釘、副冠は茨の冠、5枚の花弁と萼は合わせて10人の使徒、巻きひげはムチ、葉は槍と解釈された。
 「果物時計草(パッションフルーツ)」はこの時計草の仲間の果物。時計草とは葉っぱの形が異なり、葉のふちが少しギザギザ。実は時計草より大きい。

f:id:huukyou:20190913060215j:plain

f:id:huukyou:20190913060231j:plain

f:id:huukyou:20190913060242j:plain