連続性と無限

 運動変化の連続性、平たく言えば、スムーズな運動変化、途切れることのない、流れるような運動変化は私達にはお馴染みの変化であり、殊更珍しいものではない。それどころか、不連続な変化の方が珍しい変化だと映る。だから、不連続な変化は感覚知覚的でない変化であり、概念的なレベルの変化だと受け取られてきた。それゆえ、不連続な変化は概念的にわかれば十分だと見做されてきた。一方、連続的変化に対する問いは感覚知覚的な「連続的」とはどのようなことかについての問いであり、ギリシャ以来多くの人が関心をもってきた。私たちの眼には運動変化は連続的な変化として映る。どんな対象も連続的に位置を移動しているように見える。つまり、動画の変化は連続的で、漫画の不連続な変化はその省略形だというのが私たちの常識である。
 流れ落ちる滝の水など、その変化の妙は時には美的な感動さえ引き起こす。私たちの適応(adaptation)は運動変化が連続していることを前提にした適応としか言いようがないほどに、「運動が連続的である」ことを生活や行動の基礎に置いている。つまり、自然の変化は運動を基本にしており、その運動の基本的な特徴は連続性にある、これこそ人が経験的に獲得してきた前提である。だが、この感覚的に明らかな特徴は、非感覚的に、概念的に理解しようとすると厄介な事柄となって、私たちを悩ませてきた。命題の真偽が二値的であることが自明であるのと同じように、運動の連続性は疑いえない所与の事実と捉えられてきた。
 自明としか見えない運動の連続性の本質を見極めようとすれば、どのようにすればよいのか。運動変化の表象装置として感覚知覚を使わない、別の装置が考案できれば、感覚的でない仕方で運動の連続性をより冷静に、別の視点から理解できることになる。この見込みこそ、数学と物理学の関係を説明してくれる基本にあるものである。運動を感覚知覚的に表象するのではなく、数学的に表象することが歴史的に行われてきた。運動を適確に表象する装置が幾何学であり、幾何学によって世界を非感覚的に描くということがギリシャ以来人類の採ってきた方法だった。
 運動の表象装置としての幾何学は、運動を描くのに不可欠な時間や空間の表象を含んでいた。その表象の数学化が幾何学の解析化であり、それに伴い「無限」概念が重要な役割をもつようになった。それまで避けられてきた「無限が物理世界に存在するかどうか」といった問いに正面から立ち向かわなければならなくなった。確かに、時空の存在と無限の関係は多くの人を惹きつける問いである。
 点が連続的に並んでいることが線であることを認めるには、点が無限になければならず、連続性の背後に無限が横たわっていることを暗示している。だが、無限はギリシャ時代には忌むべき概念だった。それがアリストテレスの「可能無限」という折衷的な概念を生み出し、カントールの「実無限」概念が登場するまで解析学を支えてきた。
 連続性の解明は実数の連続性(そして実数値関数の連続性)として考察の対象となり、実数の解明は解析学の基礎として不可欠なものとなった。実数を解明する研究者の一人であったカントールは、無限概念を実無限の立場から解明しようとした。実無限がどのような概念で、その内容は連続体仮説(continuum hypothesis)の証明によって決着がついたのだろうか。
 パルメニデスによれば、実無限と可能無限の区別はなく、二つは同じ無限で、完結した無限だけが意味をもっている。だが、アリストテレスは二つの無限を区別し、実無限の存在を否定する。「数が増えていく、減っていく…」といった変化する数の並びは認識上有効でも、数学的対象として無限を考えた場合、他の確定した数学的概念と自動的に組み合わせることができなくなる。その意味で可能無限は曖昧である。可能無限は外延が曖昧な、反パルメニデス的概念であり、物理世界や心理世界の変化を数学世界にもち込んだようなものである。「完結した運動」だけが意味のある運動であると考える人は、完結した無限、つまり実無限だけが数学的に完結した意味をもつと考えるだろう。だが、数学の直観主義者や構成主義者は変化する過程を変化し終えた結果として考えることに同意しない。確かに、変化の只中に身を置いてみるなら、そこは排中律が成立しない、典型的な非決定論的世界となっている。
 最も実数らしい性質が「連続性」であり、この性質のお陰で微積分が可能となり、それを使って自然を扱ってきた[1]。連続性を支える「限りなく近づく」ことのできる性質[2]が点と線の不思議な関係を基本にして成立している。連続する時間や空間を表現する最も適した数学的対象として、実数は数学者の関心の的となってきた。
 「点が集まると線ができ、線を分割していくと点に到達する」という点と線の関係が実数における無限分割可能性という語のもつ意味を独特なものにしている。自然数の集まりも無限に分割できるが、自然数をすべて集めても線をつくることはできない。では、その自然数からどのようにして実数をつくり出すことができるのか。それを示すことが集合論の研究目標だった。この目標はいまだ実現できず、実数が自然数より高い濃度をもつことはわかったが、その濃度が自然数の濃度の次の濃度か否かは今の公理的集合論においては証明できない。[3]
 実無限、可能無限という区別は一見重要な区別に見える[4]。無限を扱う認識レベルではそうなのかも知れないが、存在レベルでは大きな意味をもっていない。認識レベルの話とは別に、「集合」は実数のもつ無限性を明らかにできる基本的概念である。

「要素が集まると集合ができ、集合は要素に分解できる」
「点が集まると線ができ、線を分割していくと点に到る」

上の文は比べるまでもなく、類似したことを主張している。点や線、そして実数のもつ基本性質は集合概念によって表現し直され、したがって、集合の基本性質から点や線、実数の性質が証明できることが保証されている。これが意味することは実に大きい。それは、

 集合論は古典的世界観を支える数学である、

ことを帰結する。と言うのも、実数を基礎付けるのが集合論であり、その実数によって表現されるのが古典的世界であるからである。特に、その時空は実数によって表現されている。古典的世界観の時空に関するアプリオリな前提は古典力学の時空に関する前提と同じであり、その前提は実数のもつ幾つかの性質そのものである。

 いつでも、どこでも対象とその状態が存在し、各状態の物理量の値は決まっている。

対象の性質で重要なのはその性質の内容であって、性質そのものではない。人には体重があり、「体重とはどのような性質か」という問いと「君の体重は何か」という問いは同じではない。君の体重が60kgであることが体重の具体的な内容であり、体重という性質そのものは通常は体重の定義において問題になるに過ぎない。対象の状態を定義する際には状態がどのような性質によって構成されているかが問題になるが、対象の状態の内容こそが状態を決めるのに必要となる。状態の内容は位置や速度の具体的な数値で表現される。
 上の文の物理量の値を満たすように実数を使う際、実数のどのような性質を使うか考えると、時空の表現と状態の表現に使われる実数の性質は、実数そのものをそのまま使うことによって済まされてきた。というのも、実数を使えばすべてが同時に満たされ、実数の性質のうちのどれといったものではなかったからである。実数の数学的性質がいつも物理的に有意味だとは言えないが、どんな数学的性質もいつかどこかで物理的に有意味になる可能性をもっている。運動の連続性は、変化がすべて連続的ではない中で、運動がもつ特徴とみなすことができる。運動が起こる時間、空間が連続する中で、運動が不連続になるような状況があるだろうか。古典力学は通常次のような仮定を認めている。

 連続する時空の中で対象が不連続に運動することは物理的に不可能である[5]。

 運動する対象が不変、つまり、生成消滅しない場合、その対象の運動は不連続ではない。というのも不連続な運動が起きるとすれば、対象は消えたり、現れたりしなければならなくなるからである。無論、数学的に不連続な運動を表す不連続な関数を考えることは数学的には十分有意味なことである。だが、そのような対象は物理世界には存在しない。
古典的世界観を支える上記の三つの前提は日常世界にしっかり浸透している。それらを前提にすべき理由より、前提にしないといかに不自然で、非常識的な事態が生じるか考えてみる方がよいだろう。そのように考えた場合、結果があまりに不自然、非常識だという理由から、三つの前提が正当化されたと誤って考えないように注意すべきである。
 運動の表現に実数を用いるということ自体が三つの前提を認めることを帰結する。「時間と空間の量子化」という表現は時間や空間を物質の原子論と同じように考えようということを意図しており、正に「時間と空間の原子論」である。すると、すぐに実数が不都合な装置であることがわかる。実数をそのまま使ったのでは原子論の主張と両立しないからである。そこで点ではなく区間で時間や空間の最小単位を考えるといった工夫が必要となってくる。区間を最小の単位にした場合、対象の運動はどのようになるのか、どのようにそれが表現できるのかという二つの異なる問題が出てくる。前者は物理学の問題であり、後者は言語、つまりは数学の問題である。


[1] 数学では常識的な連続性を完備性(completeness)と呼び、関数について連続性(continuity)という用語が使われている。
[2] 収束は「限りなく近い」点の存在によって定義され、いわゆるε-δ方式によって教えられてきた。前出の説明を参照。
[3] これが連続体仮説が公理的な集合論から独立しているということであり、ゲーデルとコーエンの結果である。
[4] アリストテレスやカントが二つの無限概念を区別し、直観主義にも大きな影響を与えたと言われているが、「無限の対象を含む集合を考えることができたら、そこから何が見えてくるか」という問いを優先したのが20世紀の大勢であり、その姿勢が集合論を生み出すことになった。そこでは「完結した無限」が集合と考えられ、「生成途上にある無限」は集合とさえみなされない。したがって、運動に関しても同じように完結した運動を対象にすることになる。
[5] 不連続は純粋に(数学的に)不連続と擬似的に(経験的に)不連続の二つに分けられそうである。単なるストップモーションと、時間、位置の断絶は異なっている。

夏から秋へ変わる

 久し振りに台風が首都圏を襲い、千葉県の一部はまだ停電が続いている。湾岸部は雨より風が強く、樹木が倒れ、大きな枝があちこちに落下していた。台風が過ぎ、急に季節が変わったような印象をもつのは私だけではないだろう。相変わらず暑いが、秋が来ようとしている。それは昆虫にも果実にもわかっているかのように思えてならない。季節の変化の幾つかを見つけて、それらを感じることから始まり、その変化が増えることによって、終に季節の交代が実現する。「季節」概念が変化しつつあっても、季節の変化は私たちの習慣と結びついて、恒常的なままである。

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人間による人間自身に対する偏見:修正版

 人間は「理性的で、倫理や道徳をもって行動する動物である」と伝統的に捉えられてきました。これを言い換えるなら、「人間は信念と欲求をもち、合理的で倫理的な行動をするシステムである」というお馴染みの表現になります。そこで、人間の倫理や道徳の萌芽ともいえる「利他性(altruism)」について考えてみましょう。「利己的」な性質は生き物の普遍的な特徴と言われても疑問はもちませんが、自己犠牲を伴う利他性は自分に不利になることを敢えて行うことを意味しますから、生き物はそんな不合理な行動はせず、生き物は利他的ではないことになります。ですから、次の二つの言明も当然正しいものだと受け取られてきました。

(偏見)人間以外の生物はすべて利己的なため、生物の進化を説明する進化論は人間のもつ利他性を説明できない。
(偏見)事実に関する事柄と倫理・道徳に関する事柄は異なっており、進化論は事実に関する事柄をもっぱら扱う。

これら二つの言明は偏見どころか、正しい言明だというのが一般的な常識です。しかし、それこそ誤りで、二つの言明は偏見であるというのがここでの私の主張です。
 利他性は倫理や道徳のように事実に関する事柄ではなく、それゆえ、経験科学である進化論は利他的な事柄を説明できない、というのが伝統的な常識でした。これは、経験科学は価値判断から独立しているとも表現されてきました。この常識の背後には、利他性は倫理的、道徳的なものの萌芽であり、利己性は倫理的、道徳的でない自然的な性質であるという考えが横たわっています。確かに、人間以外の動物は、生存と繁殖のために利己的に振舞うように運命づけられているようにみえます。動物が利他的に振舞うことは生存と繁殖に反することであり、それゆえ、そのような動物は生き残るうえで不利であり、最後には絶滅しなければなりません。つまり、利他的な性質をもつことは、生物にとって不合理なことになります。したがって、人間のもつ倫理や道徳は動物としての人間ではなく、精神としての人間のもつ特徴であることになり、人間とその行為は生物学では十分に扱うことができなく、特に人間の精神や心は生物学の研究対象から外されることになったのです。今でも人間の心や精神を科学的に考えることに抵抗したくなる人が結構な割合で存在しています。

ダーウィンの自然選択>
 変異(variation)、適応度(fitness)の違い、遺伝(inheritance)の3条件が自然選択(natural selection)が存在するための必要条件になっている、とダーウィンは考えました。生物の集団内の個体には変異(個体差、個人差)があり、その差が適応度の違いを生み出し、生存と繁殖に関して有利-不利の違いとなって現われ、その差は遺伝する。この仕組みが世代交代を通じて永い期間働くことによって生物種が分岐するような仕方で進化が起こる。これがダーウィンの自然選択による生物進化の考えの大筋です。

<見直し作業>
 「動く」が力学の基本述語なら、「選ばれる」が進化論の基本述語です。この基本述語の名詞形が「選択」です。この選択概念を見直し、交通整理をしてみたいと思います。まず、選択を次のように「偏り、バイアス」の有無によって大別しましょう。

偏りのない選択:遺伝的浮動(random genetic drift)
偏りのある選択:自然選択等
浮動の例として、赤色のボール50個、白色のボール50個のボールの入った箱から50個のボールを抽出することを考えてみましょう。何回抽出しても正確に25個の赤白のボールを抽出するのは至難の業です。どうしても赤白の個数はぶれてしまいます。そのぶれが遺伝的浮動なのです。このぶれは有利、不利の違いから生じるのではなく、抽出がもつぶれで、酔っ払いのランダムウォークと同じと考えられています。特に生態系や生物の保全を考える場合には一定個体数以下になると遺伝的浮動によって、急速に遺伝的多様性が減少し、個体群が脆弱になってしまうと言われています。

<偏りの種類に応じた選択>
 適応度の高い生物が生存闘争に勝つという、ダーウィンの自然選択をそのまま使ったのでは利他的性質が適応的であることが説明できません。利己的な個体の方が利他的な個体より生存や繁殖に関して有利だからです。利己的形質は有利な性質であり、利他的な性質(=自己犠牲を払う性質)は不利な性質なのです。でも、選択概念を考え直し、拡張することによって、生物は時には利他的である方が有利であることを進化論は説明できるようになりました。その拡張された概念が血縁選択(kin selection)や群選択(group selection)です。いずれも自然選択の一種ですが、性選択(sexual selection)と同じように自然選択とは違った側面をもつバイアスのある選択です。

自然選択と性選択:生殖に関して有利であることと生存に関して有利であることは時に両立しない。
自然選択と血縁選択:血縁関係にある個体を助けることによって自らの遺伝子の一部を子孫に伝えることができる。
自然選択と群選択:集団や組織のために犠牲を払うことは集団や組織の存続に役立つ。

<選択概念の拡大:そのからくり>
 集団がどのような性質をもつかを細かく見分けることによって、集団の特徴に依存する選択の仕方が浮かび上がってきます。集団の特徴に依存した偏りを組み込むことによって選択のからくりを見定め、文脈や状況に依存する選択を浮かび上がらせるのです。

有性生殖をする集団、血縁関係のある集団、帰属する集団、文化、伝統をもつ社会集団

 すべての基本は集団内の交配です。「交配によって世代交代を繰り返す」という反復操作は自然の規則的な反復現象を巧みに利用した適応で、集団の遺伝子プールから遺伝子を抽出すること、そしてその抽出を繰り返すこと、これらが選択の基本です。そして、その抽出は一定の基準に従って行われます。そして、公平な抽出としての遺伝的浮動、バイアスのある抽出としての自然選択、性選択、血縁選択、群選択が区別できます。そして、血縁選択、群選択のいずれによっても、利他性は生物進化の適応的性質として説明できるのです。

<利他性から倫理や道徳へ>
 利他性が生物学的な性質として存在できることから、それが倫理や道徳にどのような役割を果たすか考えてみよう。動物が多様な眼や耳をもち、同じ役割を演じるように、人間社会の倫理や道徳も多様でありながら、同じような役割を社会の中で演じています。利他的であることが眼の役割の基本中の基本であるとすれば、そこにさらに加わった機能が眼を人間の眼にしているように、利他性にさらに加わった機能が人間の倫理や道徳にしています。
 利他性が群選択の結果なのか血縁選択の結果なのかいずれであれ、利他性が果たす役割は共通しています。利他性がもつ内容が倫理や道徳の基本にあるとすれば、倫理や道徳が生物学的な起源をもち、私たちが生存し、繁殖することに根ざしていることになります。私たちが生み出したものですが、私たちだけが生み出した独特のものではなく、他の生物と同じように生み出された共通のものであることを強調したいと思います。理性が人間に独特のものではないように、倫理や道徳も人間に独特のものではないのです。

センダン

 豊洲駅から豊洲市場へと延びる都道484号線の両側にはセンダン(栴檀)が街路樹として植えられている。センダンはセンダン科センダン属に分類される落葉高木。センダンと聞くと、「栴檀は双葉より芳(かんば)し」という謂い回しを思い出すが、残念ながらこのセンダンはビャクダン(白檀)のこと。ビャクダンは香木のビャクダン科のもので、街路樹のセンダンとは別物である。
 栴檀は中国名ではビャクダンを指すが、センダンも幹に少し香りがあるため「和の栴檀」として名がついたらしい。センダンの花はほのかに香るが、私は木に香りを感じたことはない。また、センダンは「千団子」に由来するのではないかという説もある。滋賀県三井寺の「千団子祭り」に供える千個の団子のことだというのである。祭られる神は千人の子を持つ鬼子母神。このセンダンの熟した実を千個の団子に見立てて千団子というようになり、それが詰まってセンダン(画像は熟す前の実)。
 初夏に咲く薄紫色の花は美しく、香りもある。個々の花は小さいが、まとまって咲くため、花期には木全体が薄紫色に見えるほどになる。秋に熟すクリーム色の実は枝先に鈴なりにでき、遠目からも目立つ。その姿は数珠がついているように見えるため、「千珠」と呼ばれ、それが変化してセンダンとなったという説もある。ヒヨドリなどの野鳥は好んでこれを食べるが、人間の食用とはならない。

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非常識な粒子と時空

 昨日の「量子の世界の非常識」では次のように述べました。

「(3)宇宙を作る単位となる粒子(「particle、粒子」は文字通りの粒ではなく、比喩的な表現)が存在し、同種の粒子は全く区別ができず、本質的に同じものなのです。つまり、私たちは粒子を識別することができないのです。
(4)古典的な原子論や科学的実在論の根幹にある「原子の素朴実在論(naive realism)」は成り立ちません。とはいえ、この素朴実在論に代わる哲学が(多くの候補が出されてはいるものの)何かはまだ誰もよくわかっていません。それゆえ、量子力学を知れば知るほど、量子力学の主張がわからなくなるのです。」

 古代の原子論には近代以降の物理学、例えば、ニュートン力学とも量子力学とも違っている重要な点があります。まず、原子論がつくられた動機、理由は物理学的な探求にあるのではなく、パルメニデスとその弟子ゼノンの形而上学的主張に対抗し、彼らの主張を論破することにありました。原子は物理学的要請からではなく、「実在は一つで不可分」というエレア派の見解に反対するための実在論的な要請として考え出されたのです。では、どのような意味でデモクリトスの「実在は複数の原子」からなり、かつ不可分なのでしょうか。デモクリトスの答えは次のいずれかです。

1 原子を分割することは物理的に不可能である。
2 原子を分割することは論理的あるいは概念的に不可能である。

1がデモクリトスの立場なら、部分に分けることが物理的に可能ではないにしても、原子の部分について語ることは無意味ではない筈です。でも、2の立場なら、原子の分割は技術的ではなく、論理的あるいは概念的に不合理なことであり、全く意味をもっていないことになります。では、デモクリトスはいずれの立場なのでしょうか。これは研究者の間でも意見が分かれているらしいのですが、2が彼の立場と考えるのが普通でしょう。デモクリトスは物理学者ではないからです。
 原子論では連続的変化を原子の異なる数を使って表現しようとします。でも、それを表現するために実数(real number)を使いませんでした。実数は当時知られていなかったからです。ですから、デモクリトスは物質だけでなく、空間も原子論的に考えたかも知れません。すると、一個の原子のサイズが原子的空間の単位であり、測定の基本単位は原子のサイズということになります。この空間では原子の半分といった概念はないことになります。すると、デモクリトスは原子が理論的に不可分でも、サイズをもっていると言うことができます。でも、このような原子化された空間ではユークリッド幾何学が成立しません。というのも、ユークリッド幾何学では空間は連続的に分割できると想定されているからです。
 たとえば、正方形を考えてみよう。各辺の長さは原子を使って測定されます。そして、ある整数が測定結果として得られます(それは原子の個数です)。では、辺の長さが1原子単位の正方形の対角線の長さはどうなるでしょうか。対角線を底辺とする二等辺三角形について、ピタゴラスの定理から、対角線の長さは2の平方根となります。これは無理数であり、原子単位では表現できず、結果として、この正方形には対角線が存在しないことになります。したがって、原子論的なユークリッド幾何学は成立しないことになります。

 物理世界で適当な長さをどんどん分割していったとしてみましょう。直に私たちは分割される区間を眼で見ることができなくなります。一体どこまで分割できるのでしょうか。際限なく分割することは可能なのでしょうか。それともどこかで分割はできなくなるのでしょうか。空間の連続性、分割性に関して現在ではどのように考えられ、それはギリシャの原子論が直面した難問に答えることができているのでしょうか。
 物理世界ではそれ以上分割できなくなる長さがあり、それが「プランクの長さ」と呼ばれてきたものです。最近の理論では、空間は無限に分割可能な連続体ではありません。空間は滑らかではなく、顆粒状で、プランクの長さが顆粒の最小のサイズとなっています。
 このプランクの長さを通過する光が要する時間は「プランク時間」と呼ばれますが、想像できる時計の最短の時間です。これら二つの考えを組み合わすと、時間と空間は構造をもっていることになります。通常、特徴のない真空として考えられてきた空間はこれらの小さな単位、つまり、量子からつくられているのです。
 空間の顆粒性のヒントはアインシュタイン一般相対性理論量子力学を統一するという試みから出てきました。相対性理論は重力の理論であり、量子力学は電磁気力、弱い相互作用強い相互作用の三つの力の働き方についての理論です。それらの統一の結果は単一の枠組であり、しばしば量子重力と呼ばれていますが、宇宙の粒子と力のすべてを説明しようとしています。さまざまな統一化の試みの中でもっとも際立つのが超紐理論(superstring theory)と呼ばれる理論で、時空は微細な構造をもっていることを強く示唆しています。
 実在は実数の連続性のように完全にスムーズでなければならないという主張がなされてきました。二点をとったとき、それらがいかに近くともそれらの間には無限の数の点があります。他方、すべてのものは還元できない単位に分割され、その単位は自然数によって表現できるようなものだという主張もなされてきました。
 19世紀の近代原子論の展開は宇宙が連続ではなく、不連続だという見方を優勢にさせました。20世紀の初頭、プランクが光さえ粒のようであることを見出したとき、さらにこの傾向は強くなります。予想外の発見から量子場の理論が生まれましたが、そこでは重力を除くすべての力が粒子によって運ばれています。科学者は重力も他の力と同じように量子的であることがわかるだろうと考えてきました。しかし、重力以外の力が時空の領域内で作用するのに対し、重力は時空そのものなのです。
 時空の顆粒性が巨視的世界で認識されなかったというのは不思議なことではありません。陽子や中性子をつくっているクオークさえプランクのスケールで存在する凹凸を感じるには大きすぎます。でも、つい最近、物理学者はクオークやその他のすべてより小さい対象からできていると考え出しました。それが「超紐」です。拡大鏡のもとでは織物の縦糸と横糸が見えるように、プランクのレベルで時空の織りは明らかになっています。最小のサイズという考えを最初にそれとなくもったのはプランク自身でした。むろん,彼はその長さの意味については確信がありませんでした。その意味探しは今でも続いているのです。

キバナコスモス

 原産地はメキシコで、コスモスより標高の低い標高1600m以下の地域に住み分けて自生する。18世紀末にスペイン・マドリードの植物園に送られ、ヨーロッパに渡来した。日本には大正時代の初めに渡来。コスモスの仲間で、かつ、黄色っぽい花が咲くので、「黄花コスモス」になった。
 高さは約30〜100cm。概ね60cm程度に成長する。コスモスと比べて葉が幅広く、切れ込みが深い。また、コスモスよりも繁殖力が旺盛で、こぼれ種で栽培していると数年後にはコスモスを席巻してしまう。花期は比較的長く、6月から11月にかけて直径3〜5cm程度の黄色やオレンジの花を咲かせる。濃い黄色の花を咲かせるため、コスモスとは違った印象を与える。

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量子の世界の非常識

 量子が存在するミクロな世界はとても奇妙な世界です。どのように奇妙なのかとなると、常識のマクロな世界に対して、非常識のミクロの世界と呼ぶことができます。その非常識さはどれもどんな怪奇小説より奇々怪々で、ミクロな世界では常識が通用しないのです。

 量子力学の肝心な点の一つが状態の重ね合わせ(superposition)と呼ばれるものです。さいころやコインを投げるのとは違って,「状態」が 重ね合わされて (つまり、状態ベクトルの足し算によって)確率が決まるのです。何かが起こる確率の段階で足し算をするのではなく,その一歩前の「状態」という非常識的なレベルで足し算が行われるのです。日常世界とは隔絶したミクロなレベルでこのようなことが起こっていて、それを示す多くの証拠があります。量子力学の上に現代の科学技術のすべてがつくられていますから、それが間違っていては技術は信頼できなくなります。ですから、ミクロのレベルでこのような非常識を受け入れざるを得ないのですが、それはマクロな世界でも成り立つかとなると様々な不都合が起きることになります。生きた猫と死んだ猫の重ね合わせの状態など本当にあるのでしょうか。ミクロの世界の状態の重ね合わせは認めるにしても、マクロな世界で生死の重なった猫など存在できるのでしょうか。扉を開けて確かめなくても猫の生死は確定しているのがマクロな世界で、それが素朴実在論の立場です。
 物理学や天文学は人の世界観や哲学を根幹から変えてきました。原子論の実験的検証によって、世界が何種類かの粒子からできているという考えは確信に変わりました。20世紀に入り、アインシュタイン相対性理論は空間と時間についての私たちの常識を根底から覆し、日常経験を越えた世界があることを主張しました。その後に登場した量子力学は因果性とか実在性といった根本的な常識を覆してしまいました。その後の技術の進歩によって、当初は思考実験でしかなかった二重スリットの実証的な実験も行われ、ミクロの世界とマクロの世界は別物だと言えなくなりました。実在性や因果性の問題を多くの人は私たちの認識が不十分なために起こることだと見做したかったのですが、アスペの実験によって、そのような望みは絶たれました。ですから、人は人の常識的な理解を超えたものを受け入れざるを得ないという非常識の立場にあるのです。
 ギリシアの原子論と量子力学以後の現代の原子論の間には大きな違いがあります。ラボアジェの原子論は科学的根拠をもとに主張されたという点ではギリシアの原子論とは異なるのですが、そこで想定されている原子はギリシアのものと基本的に同じです。いずれもいくつかの種類の元素があり、その元素は同じ性質を持った粒子です。同じ元素はパチンコやピンポンの球と違って、それらを区別することはできませんが、一方をA、他方をBと名づければ、AとBは区別できることになります。ところが、量子力学の原子はA、Bと名づけることさえできないのです。箱の中に二つの同じ種類の粒子を入れておきます。例えば、ヘリウム原子を二つ入れ、この箱の真ん中に仕切りを入れたとき、左側と右側にはいくつの粒子が見つかるでしょうか。何度も実験した結果から、その確率を調べることができます。もし原子が一つだったら、左に見つかる確率が 1/2,右に見つかる確率も 1/2 です。二つがパチンコ球のような粒子なら、右の箱に二つ見つける確率は 1/4、左に二つ見つける確率は1/4、右と左に一つずつ見つける確率が 1/2です。ところが、ヘリウム原子で同じことをやると、それぞれが起きる確率がすべて等しく1/3になるのです。これは二つの原子が識別できないことを意味しています。
 量子力学の不思議な予言が実験的にも確かめられるようになったのは前世紀の末になってからです。量子力学は私たちが持っている実在という概念の意味を根本から問い直し、素朴な実在概念を否定しました。科学者の多くは素朴実在論の立場に立って世界を考えています。さらに、「局所的(local)」という概念を加えて世界を考えています。局所的と言うのは,起きた変化が遠方まで一気に及ぶのではなく、近接作用で伝わっていくということです。電磁気の法則が近接作用に基づくように、物理学は因果関係の連鎖を認めることを基本的な考え方にしてきました。私たちの意識の外に物は存在しており、因果的関係によってその変化が起こっています。因果的な関係は時空において網のように連続的につながっているのです。さらに、この因果的関係は原因と結果が一対一に対応していて、確率的ではないというのが常識的で伝統的な考えでした。ですから、アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言って、統計的な言明を認める量子力学を不完全なものと考えたのです。アインシュタインポドルスキー,ローゼンとともにEPR Paradoxと呼ばれる思考実験を提案して、量子力学から導かれる結論が私たちの持つ因果性の考えと矛盾することを示し,量子力学は不完全だと主張しました。
 物事を常識的に、つまり、古典物理学的に考える人にとって局所的因果律のない世界を素直に受け入れることはできません。アインシュタインが最後まで量子力学を受け入れなかったのはこのためです。局所的因果律を信じるか、量子力学を信じるか。これは私たちの哲学的な信念の問題ではなく、実験によって確かめるべきなのです。そして、量子力学が正しいか、局所的因果律が正しいかについて、さらにベルの不等式について、強い相関を持った光子対を使って確かめる実験がクローザー,ホルン,シモニー,ホルトによって行われました。さらに、1975年から1982 年にかけてアスペらは一連の実験を行い、ベルの不等式は本当に破れているという確定的な結果を得ました。
 これらの非常識をまとめると次のようになるでしょう。

(1)マクロな常識的世界では物理的な対象の状態変化は連続的だということになっていて、私たちの知覚経験もそれを認めているのですが、ミクロな世界では物理的対象の状態変化が不連続的に起こることが可能となります。滑らかな変化、スムーズな変化、連続的な変化が運動変化の基本にあり、非連続的、突発的な変化は物理的でない変化を表すのに使い分けられてきました。常識の世界では時間も空間も一様に変化することが前提されてきましたので、ギャップのある時間や空間は不自然で、非常識と見做されてきました。
(2)その不連続的な変化では、ある状態から移りうる状態が複数あり、そのどれにいつ移るかは全く確率的な事柄、出来事であるというのがミクロな世界です。すると、そこでは原因と結果の1対1対応がなくなり,決定論的な因果性が成立しなくなります。変わっていく個々の変化が一意的でない理由は、私たちの知識がまだ不十分で正確な予測ができないからではなく、私たちの知識とは無関係に本質的に不確定なのです。「本質的に不確定」が何を意味しているかは実のところよくわかっていません。わかっているのは「本質的に確定的」が真ではないということです。
(3)宇宙を作る単位となる粒子(「particle、粒子」は文字通りの粒ではなく、比喩的な表現)が存在し、同種の粒子は全く区別ができず、本質的に同じものなのです。つまり、私たちは粒子を識別することができないのです。
(4)古典的な原子論や科学的実在論の根幹にある「原子の素朴実在論(naive realism)」は成り立ちません。とはいえ、この素朴実在論に代わる哲学が(多くの候補が出されてはいるものの)何かはまだ誰もよくわかっていません。それゆえ、量子力学を知れば知るほど、量子力学の主張がわからなくなるのです。

 このような大雑把な要約をより丁寧に考えるためにはしっかりした文献リストが不可欠です。昨日量子力学の哲学に関する文献リストをPhilosophy Societyに掲載しました。「Reading list on philosophy of quantum mechanics, David Wallace, June 2018」を参照して下さい。また、この名称で検索すれば、簡単に読むことができます。