相馬御風と高村光太郎は同じ1883(明治16)年生まれです。若き御風は明治末に与謝野鉄幹・晶子の新詩社に加わり、そこで高村光太郎と初めて知り合います。高村光太郎の父は有名な高村光雲で、光太郎は1906年からニューヨーク、ロンドン、パリにそれぞれ1年強留学し、1909年帰国しています。光太郎が本格的に詩作を始めるのは、海外留学から帰朝後の1910(明治43)年のこと。初めは文語詩でしたが、次第に口語自由詩に移行していきます。一方の御風は光太郎留学中の明治1908(明治41)年には既に口語自由詩を発表しています。御風の口語詩は(既述のように)成功しませんでしたが、帰朝後の光太郎は口語自由詩に傾いていきました。
光太郎は1914(大正3)年に詩集『道程』を出版し、長沼智恵子と結婚します。1929(昭和4)年に福島の智恵子の実家が破産し、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、のちに統合失調症を発病します。1938(昭和13)年に智恵子が亡くなり、1941(昭和16)年詩集『智恵子抄』が出版されます。同年太平洋戦争が始まると、戦争協力の詩を多く発表、戦意高揚に努め日本文学報国会詩部会長も務めました。一方の御風も『野を歩む者』の目次や山本五十六など多くの軍人との書簡から、戦争協力の姿が見られます。また、日本文学報国会のメンバーにもなっています。光太郎には膨大な数の戦争詩があり、御風もその売上金を海軍省に献金するために発行された『辻詩集』(1943(昭和18)年)に作品を寄せるなどしています。もっとも、こうした活動は当時の殆ど全ての文学者に当てはまることでした。
御風の長女文子(あやこ)は既に童謡「春よ来い」の「みいちゃん」のモデルと述べましたが、文子は光太郎の妻智恵子と同じ日本女子大学卒で、戦前は本郷の東京帝大史料編纂所に勤務し、光太郎の元も訪れています。『高村光太郎全集』には文子宛の書簡も掲載されています。
光太郎も御風も戦時中は戦争に協力する姿勢を文学活動などで示しています。御風の活動は次の機会に考えようと思いますが、二人の活動に共通するものを光太郎の『智恵子抄』の詩から感じ取ることができます。文学表現と戦争思想が混淆、習合しながら、人間の生き様や思想が世俗生活の中で浮かび上がってくるのです(『智恵子抄』は青空文庫で読むことができます)。
淫心
をんなは多淫
われも多淫
飽かずわれらは
愛慾に光る
縦横無礙むげの淫心
夏の夜の
むんむんと蒸しあがる
瑠璃るり黒漆の大気に
魚鳥と化して躍る
つくるなし
われら共に超凡
すでに尋常規矩の網目を破る
われらが力のみなもとは
常に創世期の混沌に発し
歴史はその果実に生きて
その時劫こうを滅す
されば
人間世界の成壌は
われら現前の一点にあつまり
われらの大は無辺際に充ちる
淫心は胸をついて
われらを憤らしめ
万物を拝せしめ
肉身を飛ばしめ
われら大声を放つて
無二の栄光に浴す
をんなは多淫
われも多淫
淫をふかめて往くところを知らず
万物をここに持す
われらますます多淫
地熱のごとし
烈烈――
(大正3年8月)
あどけない話
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
(昭和3年5月)